高野・熊野・伊勢巡り(22) 熊野那智大社(続き)。

拝殿前には、お清めの護摩木がある。

小学1、2年生坊主と赤ちゃんを抱いた若い夫婦が、護摩木を手にしていた。1、2年生坊主と赤ちゃんの幸せを祈ってのことだろう。
私も、孫娘の幸せを祈念して一つ求めた。

ここで焚きあげる。

拝殿で祈る人。

巫女さんが蝋燭立てを掃除している。

拝殿の横には宝物殿がある。
太刀や鏡などがあった。しかし、さほど印象に残っていない。

玉垣の向うに社殿の千木が見える。

少し引いてみると、もう少し見える。千木も堅魚木も。
熊野那智大社の内庭だ。我々は入れない。こちら側には、熊野のシンボル・八咫烏もいる。
内庭には、六殿の社殿があるそうだ。

拝殿からふり返る。
石段を登りきったところにあるニの鳥居が見える。
その向こうに・・・・・

この桜木がある。和歌山県指定の文化財。ヤマザクラの名木である。
平安末期、平泉の藤原秀衡が熊野詣の時に奉納した、と伝えられる曰くある桜木。別名、白山桜。
実は、熊野那智大社には、もう一本桜の名木がある。
歴代上皇中、最も多い34度の熊野御幸をなされた、後白河上皇御手植えの枝垂れ桜である。
社殿の建つ内庭にあるそうだ。だから、私は見ることができなかった。
だがしかし、その後白河上皇御手植えの枝垂れ桜の名木の根元に、優雅な黄楊(つげ)の女櫛を埋めた男がいる。著名な歌人にして大学教授でもある藤宮先生である。
三島由紀夫の名作『三熊野詣』(昭和40年、新潮社刊)は、さすが三島、いかにも三島、といった匂いに満ちた佳作である。
藤宮先生、風采が上がらない独身の老歌人であるが、熱狂的な支持者がいる。その先生を30代半ばから10年に亘り世話をしている寡婦がいる。名は、常子という。10年もの間、同じ屋根の下で暮らしながら、男女の関係などということはまったくない。
この二人が熊野詣に行くんだ。那智大社、速玉大社、本宮大社、というコースを辿るから、通常のコースとは逆コース。
それはともあれ、旅に出る前、先生は常子に「永福門院の家集」を渡すんだ。「これを勉強しなさい」、と言って。永福門院、伏見天皇の中宮、鎌倉末期の歌人であり、玉葉集の中心歌人である。『三熊野詣』、勉強もさせてくれる。
まあ、それもそれとし、藤宮先生、熊野三山の各大社へ行くたびに、雅な黄楊の女櫛を紫の袱紗から取り出し、木の根元に埋めるんだ。
何故か。
三島由紀夫の名文を、私ごときがかいつまんで記してもつまらない。だから、これ以上は記さない。
熊野、さまざまな色を持つ。
隠国(こもりく)の熊野。死の国・熊野。反逆の熊野。・・・・・
三島由紀夫の熊野、神秘の熊野、と言えるのかもしれない。

すぐ隣りの青岸渡寺からの方が、内庭の社殿よく見えた。
社殿、「熊野権現造り」というそうだ。


忘れちゃいけない。
72年前の今日、日本は真珠湾を攻撃した。
その後、多くの命が失われたその基の日である。