終の信託。

昨日の「最強のふたり」は、男と男の信頼の話。今日の「終の信託」は、男と女の信頼の話、ではないんだ。
男と女の信頼が醸し出す擬似恋愛的なものを下敷きとした話である。
尊厳死の問題、そして、司法の問題である。

「終の信託」、監督:周防正行、主演:草刈民代、役所広司、「シャル・ウィ・ダンス」トリオ、さすが上手い。充実した映像だ。観せる。魅せる。
しかし、何故に、どういうことだ、という疑問が幾つも湧いた。
冒頭、検察庁に元女医が呼び出される。美人。少し前に辞職したが、東大医学部を出て、ある病院の勤務医となり、その病院初の女性部長となった女。46歳。3年前の件で呼び出された。
長時間、待たされる。過去の映像が流れる。
彼女の担当する患者に、重度の気管支喘息患者がいた。もう25年もの間、入退院を繰り返している初老の男。役所広司が扮する。当然、担当医は草刈民代。
プッチーニのオペラのアリアという小道具などもあるが、女医の方の事情(遊び人の医者に騙された。通算入院期間3年以上、さまざまな医者と向き合ってきた私から言わせれば、医者には遊び人が多い。もちろん、立派な医者も多いが)もあって、初老の重度の喘息患者と中年の女医との間に、いわば擬似恋愛関係のようなものが生まれる。信頼、と言ってもいい。
「最後の時が来たら、延命治療は望まない」、と言うんだ。何ということ、子守唄を歌ってほしいなんてことまで言う。
その時が来る。家族の了解も取っている。
女医、見守る家族の目の前で、気管チューブを引き抜く。
と、何故か患者は息を吹き返し、暴れる。女医、鎮静剤の注射を打つ。何度も。多くのアンプルを。大量の鎮静剤を打つことにより患者は死んだ。
家族の目の前で。暴れながらでの死、尊厳死を望んでいた家族には、殺人と映ったであろう。
おそらく、女医にとっては、気管チューブを抜いた後に患者が暴れること、想定外のことであったであろう。解っていれば、家族を一旦部屋から出した後、気管チューブを引き抜くべきだから。
ここのところ、尊厳死と殺人の分かれ目だ。

こういうことになる。”医療か? 殺人か?”ということに。
このケース、気管チューブを、患者の家族を部屋から出した後に引き抜けば、とてもいい医者となった。しかし、家族の目の前で引き抜いたのでは、殺人となる。医療じゃなくなる。
11年前、私の母は87歳で死んだ。腸が破れ、あちこちの内蔵もヒドイ状態となった。医者からどうするか、と聞かれた。医者に、母は日本尊厳死協会に入っていることを伝えた。医者は、「そうですか」、と短く答えた。
その後の母、意識のある内に、親しい人との別れをすませ、10日ほど後に旅立った。私は、よかった、と思っている。
実は、私も日本尊厳死協会の会員となっている。カミさんと2人の夫婦会員。15〜6年前から。
日本尊厳死協会の会員、今、12万人強。まだまだ少ない。もっと多くの人に入ってもらいたい。会費も安い。一人だと年2000円、夫婦会員だと年3000円。
それはそうと、周防正行の映画には、”日本尊厳死協会”のことが出てこない。何故なんだ。不思議だ。
尊厳死法の法制化、成し遂げられなければならない。


尊厳死の問題はある。
日本尊厳死協会に入っている私は、リビング・ウィルを表明している。いざとなったら、延命治療はしてほしくない。いろいろさまざまな管など、付けてほしくない。
そのこと、よろしく。これ、私のリビング・ウィル。
映画からは少し離れたようだ。
最後に、検察官と元女医との闘いがある。
女医の行い、医療か、殺人か、という問題だ。
この女医、とてもいい医者である。しかし、彼女がとった行為、殺人と見なされて仕方ないであろう。
検察の調べ、ンー、そうであろうな、と思われる厳しいもの。こちらは、周防正行が追っている司法の問題。
尊厳死と司法、異なるふたつの主題を追った作品、考えさせられる。