ジョン万次郎。

昨夜、千葉市民会館で「ジョン万次郎」についての講演会があった。
千葉県、案外広い。同じ千葉ではあるが、帰宅が遅くなり、その様子、今日とした。

講師は、ジョン万次郎ゆかりの地、高知県の前知事・橋本大二郎と、ホイットフィールド万次郎友好協会名誉理事・吉田礼三の両氏。
橋本さんは、今、早稲田と慶応の客員教授と特別招聘教授。政治活動の一線は引いておられるようだ。
吉田さんは、25年前、60歳の時にアメリカへ移住、日米の企業間のコンサルタントをされてきた人。アメリカでは、ユニセフ(国連児童基金)のアドバイザーとして、ユニセフのため日本から約100億円の募金を集めた男、として知られる。

総合的なタイトルは、これである。
「ジョン万次郎の勇気と努力に学ぼう」、ということ。
ジョン万次郎・中濱萬次郎、文政10年(1827年)、土佐・中濱村(現在の土佐清水市)に生まれ、明治31年(1898年)11月12日に死んだ。昨日は、万次郎の命日なんだ。
万次郎、漁師の小倅である。しかし、とても素早く、頭が切れる。14歳の時、漁に出て難破、アメリカの捕鯨船に救われ、アメリカで学び、10年後に帰国する。
昨夜は、まず吉田礼三さんが、映像を使いジョン万次郎の勇気と努力の生涯を話し、その後、橋本大二郎さんが、前高知県知事の立場からのジョン万次郎、そして、これからのジョン万次郎像を語った。
明治維新前夜の土佐の人間として、坂本龍馬と並ぶ男、国際感覚を持った人間として。

講演会のチラシを複写した。
「今だからこそ」、というところに力点がある。おそらく、このコピー、吉田さんの手になるものであろう。
吉田さん、普段はアメリカに住んでいるが、1年に2回、2か月ぐらいずつ日本に戻ってくる。そして、全国の小学校や中学校を回っているそうだ。小学生や中学生にジョン万次郎のことを話しているのだ。
それと言うのも、日米友好の先達・ジョン万次郎のことが、日本ではあまりにも知られていない、ということを知ったから、とも話されている。
昨夜は、吉田さんからお誘いをいただき、共通の知人と誘い合わせ行った。とても楽しく有益な会であった。

吉田さん、5〜6年前、ジョン万次郎を救い、アメリカへ連れて行き、住まわせたマサチューセッツのホイットフィールド船長の家を買取り、修復して記念館として保存する事業を推進し成し遂げた。
そして、ジョン万次郎のことを、日本の小学生や中学生、これからの子供たちに伝える行動を続けている。私から言わせれば、国士である。
私が吉田さんと知己を得たのは、吉田さんがアメリカへ行ったすぐ後ぐらい、アメリカと日本を行ったり来たりしている頃であった。仕事上でのつき合いから始まった。吉田さんからの情報で、何度かアメリカへ行った。お宅に泊めていただいたことも何度かある。
残念ながら、大きな収益をあげた、ということはなかった。しかし、吉田さんとのつき合いは、仕事を辞めた後でも続いている。いわば、日本を思う国士としての吉田さん、との。

今、こういう映像を持って、吉田さんは全国の小学校や中学校を回っている。
ジョン万次郎の生涯が次々に出てくる。画面に。紙芝居のようで、とても面白い。
吉田さんの語り、小中学生に語るのと同じ語り。熱が入る。

吉田さん、さまざまな映像をスクリーンに映し、熱を込めて話す。
時折り、演台から離れ、スクリーンに近づく。この万次郎が救われたアメリカの捕鯨船・ジョン・ハウランド号の映像でも、そうであった。思いが強くなるんだ。

吉田さん、白板に地図を描く。
ジョン万次郎が最初に驚いたのは、日本があまりにも小さな国だったことだそうだ。吉田さん、白板に、これが日本、これが朝鮮、中国はこれ、ベトナムはこれ、インドはこれ、ハワイはこれ、アメリカ、北アメリカはこう、南アメリカは、こう、と描いていく。
おそらく、小中学校での講演でも、こういう地図を描いているのであろう。手馴れたもの。とても解りやすい。私は、吉田さんの凄さも感じた。
ジョン万次郎、10年の海外生活を経ての帰国。
当時の日本、鎖国状態である。ジョン万次郎、まず琉球へ入る。次いで、薩摩へ。藩主・島津斉彬へ欧米事情を述べる。島津斉彬、開国へ舵を切る。
咸臨丸での遣米使節、勝海舟や福沢諭吉と共にアメリカへ行く。しかし、英語は喋れるものの、所詮は漁師、武士の出ではない万次郎、その後は、重用されなかった。明治31年まで生きたのだが。

吉田礼三さんの熱の入った講演の後、橋本大二郎さんの講演があった。
橋本さん、ジョン万次郎の地元、高知県の知事を4期、16年務めたという。橋本大二郎、万次郎ゆかりのマサチューセッツ州フェアヘブンには、3回行ったそうだ。
最初は、NHKの皇室担当記者時代。皇太子時代の現天皇と美智子さまを、マサチューセッツのフェアヘブンへ案内したことがある、と言う。
次は、現皇太子が浩宮と言われていた頃。イギリスからの帰途、アメリカへ寄った。お妃候補がどうこう、という頃である。
浩宮、ニューヨークの大学でアメリカの若い女性と会っていたそうだ。当時、人気の美少女・ブルック・シールズであったそうだ。その後、浩宮、5番街の本屋で、ブルック・シールズの写真集を買った、という。その後のボストン、そこでは、ブルック・シールズのポスターを買った、という。NHKの皇室番記者として張り付いている橋本大二郎、そういうことを見ていたらしい。
しかし、橋本大二郎が言うことは、そういうことばかりではない。橋本大二郎、こう言う。
ブルック・シールズは大柄な女性であった。皇太子・浩宮は、その後、小和田雅子さんと結婚された。小和田雅子さん、どことなくブルック・シールズに似ている。今、皇太子は、ブルック・シールズの写真集やポスターをどうされているのかな、と。いや、今でも、きっとお持ちであるよ。
そういうものだよ。過ぎ去りし日のもろもろは。
忘れちゃいけない、3回目は、高知県知事としての訪問だった、と言う。
橋本大二郎さん、さすが元NHKの記者だけあり、話しは上手い。
NHKを退職した時には、勤続19年何か月であったそうだ。手続きの部署へ行くと、「いや、惜しいですね」、と言われたそうだ。記者としての自分を惜しんでくれるのか、と思ったそうだ。ところが、そうではなかったそうだ。
勤続20年だと、退職金の基準が違うらしい。係りの人は、それを、惜しいですね、と言ったという。
橋本大二郎、司馬遼太郎の『坂の上の雲』のことを話す。
日本は、過去2回、坂の上の雲を見、目指してきた。四字熟語で、と。
最初は、明治維新後の富国強兵。2度目は、太平洋戦争に負けた後、経済成長という四字熟語があった。これからは、第三の雲を目指すべきじゃないか。それは、ジョン万次郎の中にあるのではないか、と。橋本大二郎さん、こう話していた、昨日の夜。
このこと、どう捉えるか。考えなきゃね、私たち。