パリ+リスボン街歩き (71) グルベンキアン美術館(続き)。

アルメニア、南カフカース(コーカサス)の小さな国だ。カフカースの小さな国々、昔から北と南の大きな国、ロシアとオスマントルコに虐められてきた。今でもそうである。チェチェンやダゲスタンなどの北カフカースの国々、ロシアから酷い扱いを受けている。
それはそれとして(でもないのだが)、そのカフカースの小さな国・アルメニアの人々、古くから世界のあちこちへ出ていった。
ユダヤ商人、中国商人、インド商人と同じくアルメニア商人、ということが言われる。アルメニア人、皆が皆小柄な人ではなかろうが、すばしっこく、はしっこい、ということでは共通点を持つのではないか。世界のどこへ出ていっても。
カルースト・グルベンキアンの親もイスタンブールへ出ていった。イスタンブールで生まれたカルースト・グルベンキアンは、ロンドンへ行き、ヒトラーの軍靴が迫るまではパリに住み、最後にはリスボンに住んだ。
<人付き合いが大嫌いであったグルベンキアンは、めったに人を信用せず、・・・・・、そのコレクションを自分ひとりだけで楽しんでいました。グルベンキアンはこう語っています。「わたしは東洋人だ。ハーレムを他人に見せる習慣は持ち合わせていない」と>(NHK「世界美術館紀行」取材班編『世界美術館紀行』第4巻、2005年、日本放送出版協会刊)。確かにカフカース、西アジアでもある。
しかし、同書にはこうもある。
<グルベンキアンは、コレクションを美術館に収めるという考えを早くからもっていた>、と。
ロンドンやワシントンに美術館を造ることを考えていたようだ。しかし、それがさまざまな理由でポシャッた後、最終的にリスボンに、となったそうだ。死の2年前、1953年に、すべてのコレクションをポルトガル政府に寄贈して。
何故に、生まれ故郷のイスタンブールでなかったのか。これにも深いワケがある。アルメニア人、トルコには深い恨みがあるんだ。だからアルメニアの人たち、世界中に散っていったのだ。商売が上手くなっていったのも当然だ。
儲けた有り余る金で作られた、グルベンキアン美術館のコレクションに戻ろう。

イスラム美術やコーラン。

コーラン、さまざま美しく飾られる。

キリスト教の祈祷文などが書かれた装飾写本が並ぶ。時祷書である。時祷書、個人用の装飾書である。

中央の下の時祷書は、1395年から1400年の間に作られた時祷書。羊皮紙が使われている。
ババリア公・アルベルトの夫人・クレーブのマーガレットの為に作られた、と説明書きにある。

グルベンキアン美術館、ルネッサンスから印象派まで、各時代、多くの絵画のコレクションを持つ。

北方ルネッサンスの画家・ディルク・ボウツ作の「受胎告知」。1465年に描かれた。素晴らしい作品だ。

ルネッサンス期の画家・ドメニコ・ギルランダイオの「若い婦人の肖像」。品のいい女性が描かれている。とても惹かれる。
板にテンペラ。1490年に描かれた作品である。
ドメニコ・ギルランダイオ、あのサンドロ・ボッティチェルリと同世代。フィレンツェの絵描きである。

このおじさんが見ているのは、ルーベンスの「エレーヌ・フールマンの肖像」である。1630年から1932年の間に描かれた。
エレーヌ・フールマン、実は、ルーベンスのカミさんなんだ。しかし、並みのカミさんではない。1630年、ルーベンスが53歳の時に迎えたカミさんである。エレーヌ・フールマン、その時16歳。今なら、法に抵触するんじゃないかな。それにしても、羨ましいヤツだ、ルーベンスは。だからであろう、ルーベンス、エレーヌの肖像を何点も描いている。

「孔雀と雄鶏の闘い」。カンヴァスに油彩。
17世紀のフランドルの画家・ポール・ド・ヴォスの作。

右端の作品は、アンリ・ファンタン・ラトゥール作「読書」。1870年の作品だ。

印象派の作品も多く蒐集されている。
この写真の左から2枚目の作品は、ルノワールの「クロード・モネ夫人の肖像」。1872年から1874年の間に描かれた。
グルベンキアン、ロンドンのナショナルギャラリーやブリティッシュ・ミュージアムに収蔵品の一部を寄託していたが、多くは、一人で楽しんでいたようだ。でも、最後には、スパッとポルトガルの国に寄贈する。後はよろしく、と。
えっちらおっちら生きている私めが言うことではないが、金持ち、こうであらねば、であろう。