ラファエロ、500年前も、500年後の今も。

丁度ひと月前、上野へラファエロ展を観に行った。
大規模なラファエロ展、日本初。国立西洋美術館の外には、こういう看板が。

「ルネサンスの優美(グラツィア)、500年目の初来日」、と。
目玉は、これ。
フィレンツェのピッティ宮殿内パラティーナ美術館からの≪大公の聖母≫。板に油彩。84×56cm。1505〜06年作。天才ラファエロ、22〜3歳頃の作である。

西洋美術館構内への階段の脇にもこの看板、≪大公の聖母≫。
ところが、構内へ入ると行列である。待ち時間40分、となっている。会期末も近い故、閉館時間を午後8時まで延長している。東博へ行き、時間をつぶすことにする。
その前に、入口脇の≪自画像≫を。

端正な面差しの自画像である。
板に油彩。47×35cm。1504〜06年、ラファエロ、21〜3歳頃の作。
東博、さらにコーヒー屋で時間をつぶし、夕刻西洋美術館へ戻る。待たずに入れた。
1483年ウルビーノに生まれたラファエロ、イタリア・ルネサンスを代表する画家。レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロと並び称せられる。1452年生まれのレオナルド・ダ・ヴィンチよりは約30年若く、1475年生まれのミケランジェロよりは8つ年下である。
11歳でペルージャのペルジーノ工房へ弟子入り、徒弟奉公を始める。17歳で親方として独立。凄い才能だ、と言えるであろう。
1504年、21歳の時フィレンツェへ出る。
この年、50代に入っていたレオナルド・ダ・ヴィンチは、まだフィレンツェにいた。ローマへ出ていたが数年前フィレンツェへ戻っていたミケランジェロは、この年、あのダヴィデ像を完成させる。
若きラファエロ、二人の先達、二人の超天才の技を己が作品の中に取り入れる。

1993年、丁度20年前、フィレンツェへ行った。お目当てはもちろん、ウフィツィのボッティチェッリ。
ところが、その数日前ウフィツィの近くで爆弾テロがあり、ウフィツィ美術館の建物の一部も壊された。ウフィツィ、暫らくの間閉館となった。残念至極であったが、ピッティ宮殿内のパラティーナ美術館はじっくりと観た。
ピッティ宮殿のパラティーナ美術館、ラファエロの作品がとても多く展示されている美術館である。
今回の国立西洋美術館へも、ピッティ宮殿から幾つものラファエロが来ている。今回の目玉である≪大公の聖母≫もピッティ宮殿のパラティーナ美術館からのものである。
上の写真は、20年前求めたピッティ宮殿の図録の表紙。
表紙の絵は、≪アーニョロ・ドーニの肖像≫の部分。
板に油彩。1506〜7年の作。ラファエロ、23〜4歳。

アーニョロ・ドーニ、フィレンツェの裕福な商人。右は、その妻の≪マッダレーナ・ストロツィ・ドーニの肖像≫。
若きラファエロ、二人の先達、超天才の後を追う。
<ミケランジェロを賞賛したラファエロだが、多くを学んだのはレオナルドからだった。アーニョロ・ドーニの手に注目すると、≪モナ・リザ≫の優雅さが感じられる>(クラウディオ・メルロ著、坂巻広樹訳『ルネサンスの三大芸術家 ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロをめぐる物語』 1999年、PHPエディターズ・グループ刊)。
この頃のラファエロ、多くの肖像画を描いている。
以下、ピッティ宮殿、パラティーナ美術館の図録から幾つかのラファエロの作を引く。

≪枢機卿・ビッビェーナの肖像≫。カンヴァスに油彩。
ビッビェーナと呼ばれていたこの枢機卿、ベルナルド・ドヴィーツィ、ローマへ移った後のラファエロのパトロンであるらしい。
ラファエロ、1508年にフィレンツェからローマへ移る。いよいよヴァティカンだ。この時のラファエロ、まだ弱冠25歳。
この後、ヴァティカンでの華々しい活躍が始まる。教皇・ユリウス2世の寵愛を受けての”ラファエロの間”の制作。とりわけ1509年から1510年にかけての≪アテナイの学堂≫。
実力、人気を兼ね備えたラファエロ、ヴァティカンで大暴れ。なにしろ、この頃のラファエロ、弟子を50人以上も抱える大工房だった。ラファエロ、経営者として多くのアーティストを使い、数々の作品を制作していく。

≪ヴェールをかぶった婦人の肖像≫。カンヴァスに油彩。
実はラファエロ、1520年の誕生日、丁度37歳になった日に死ぬ。若死である。
生涯独身であった。しかし、生涯モテモテであったそうだ。ラファエロ自身、女から女へ、という生活であったらしい。しかし、一度だけ婚約をしたそうだ。パトロンであるビッビェーナ枢機卿から、その姪のマリア・ビッビェーナを紹介され婚約したらしい。だが、婚約者が急死、結婚には至らなかったそうだ(池上英洋監修『ラファエロの世界』 2012年、新人物往来社刊)。
上の≪ヴェールをかぶった婦人の肖像≫、<花嫁特有の仕草から、婚約者マリア・ビッビェーナと考えるむきもある>、と上記『ラファエロの世界』にはある。

ラファエロほど多くの聖母子像を描いた画家を知らない。
ピッティ宮殿のパラティーナ美術館には、数々の聖母子像が掛かっている。この絵も、もちろんその中にある。
ラファエロの聖母子像で最も著名な作品≪小椅子の聖母≫。
聖母マリアと幼子イエス。それを見守る洗礼者ヨハネ。板に油彩。直径71cmのトンド(円形画)である。
恐らく、ラファエロの聖母像では、最もよく知られている作品であろう、この聖母像。とても美しい。

左は≪大公の聖母≫、右下は≪トマッソ・インギラミの肖像≫。
ピッティ宮殿のパラティーナ美術館、ラファエロの作品これでもかとある。
≪大公の聖母≫には、こういう話がある。
18世紀末、ナポレオンがトスカーナ地方へ攻めこんだ。トスカーナ大公であるフェルディナンド3世、ウィーンへ亡命した。このラファエロの絵を持って。だから、この絵のタイトル、≪大公の聖母≫となった。様々な文献、おしなべて皆、そう記している。

聖母マリアと幼子イエス。
この構図、恐らく、西欧世界の根底にあるもの。東の世界は、常にその頭の中に入れておくべき事象であろう。

夜8時、閉館となった入口であり出口でもある国立西洋美術館前。
若い女性が、ハイ・チーズやハイ・ピースで写真を撮っている。
優男・ラファエロ、500年前も500年後の今も、女性の心を掴んでいるようである。

暗闇の中、聖母子の看板、ボーと浮かんでいた。