パリ+リスボン街歩き (58) 国立古美術館(続き×2)。

カルタ、カステラ、キャラメル、ジュバン、メリヤス、シャボン、タバコ、これらの言葉、元はといえばすべてポルトガルの言葉。まだまだあるが、みーんなポルトガルから喜望峰をまわり、インド洋を越え、極東の島国までたどり着いた。言葉ばかりじゃない。広い分野の交流が始まった。
<1543年、ポルトガル人が日本に到達した。二つの国民の最初の出会いであったが、それは、二つの文明の邂逅であった。貿易や文化面の交流の様が、対になったスクリーン(屏風)に描かれている>、と国立古美術館の図録にある。
対になったスクリーン、つまり、南蛮屏風である。

紙本金地着色の六曲一双の南蛮屏風。狩野内膳の手になるもの。狩野内膳、1570年に生れ1616年に死んだ狩野派の絵師。
パートパートを見てみよう。

左雙左側中央部(左雙の第4、5、6扇)。
ポルトガル人であろう南蛮人が多くいる。建物は、西洋風。

左雙の左上部(第4、5扇)。
人物はポルトガル人だが、建物は日本風でもある。

左雙中央部(第3、4扇)。
小ぶりな船に多くの南蛮人。

左雙右上部(第1、2、3、4扇)。
南蛮船。

左雙右側下部(第1、2扇)。
左側には、騎馬姿の南蛮人も。

右雙中央部(第3、4扇)。
日本に上陸した後の様子ではないか。騎士も商人も宣教師も、さまざまな務め、使命を持った南蛮人が来ていたんだ。左の方に見えるのは、ラクダじゃないか。暫らく後には象も来た。

右雙右端部(第1、2扇)。
右の方には日本の武士が描かれている。左の方にはキリスト教の布教に来た多くの宣教師が描かれる。
日本に来た宣教師、何もフランシスコ・ザビエルに限らない。きっと、無名の宣教師がいっぱいいるのだろう。日本での布教は、大変難しいものであっただろうが。日本のクリスチャンの比率とても低い、ということからもそれは窺われる。

こういう光景、日本でもあるのかな。小学3、4年か4、5年かという生徒が床に座り先生の話を聞いている。
ここに限らず、ヨーロッパの国々、あちこちの美術館でこういう光景を見る。幼稚園の可愛い子供たちから、「それがどうした」という顔つきのいけ好かないヤツも混じる高校生の団体まで。子供たちをちょくちょく、美術館へ連れてきているんだ。日本では、ほとんど出会わない光景だ。残念だ。
危うく忘れるところであった。
この背景のことを記そうとしていたんだ。
やはり、紙本金地着色の南蛮屏風が写っている。
後ろに写っているのは、狩野道味の手になる南蛮屏風。
狩野道味、前述の狩野内膳と同時代の狩野派の絵師らしいが、内膳と異なり、生没年など詳しいことは分かっていない。南蛮屏風を描いた絵師、ということ以外は。
そのパートも少し。

左雙右端(第1、2、3扇)。
よく眺めると、南蛮人、西洋人に混じり、多くの肌色の濃い人がいることが解かる。彼らはアフリカ大陸の出身者、南蛮人、西洋人、アフリカの民を召使として使っていた。場合によっては、極東の民も。そうはならなかったが。

右雙中央部(第1、2、3、4扇)。
日本に上陸した後の南蛮人、ポルトガル人。日本人が最初に見たヨーロッパ人・コーカソイドである。
それはそれとして、ポルトガル起源の日本語は、冒頭に記したように多い。しかし、日本語起源のポルトガル語もある。
BIOMBO、ビオンボ、屏風である。