通天閣100周年。

丁度一週間前、先週の土曜の夜、新世界に行った。新世界の通天閣、誕生100周年となる。何日か前に開業100周年の行事が行なわれている。今の通天閣は2代目だ。初代の通天閣ができたのが1912年の7月3日なんだ。名づけ親は、儒学者・藤沢南岳。
先週土曜日、親父の一人(叔父)の四十九日、満中陰の法要の後の宴席、御堂筋に面した一流ホテルで催された。従兄弟のYが言うには、通夜と告別式は奈良の老人ホームで行なった故、十分なもてなしができなかったので、とのこと。
6時すぎ宴席が終わり、同じミナミ(南、難波、心斎橋、道頓堀界隈をいう)のビジネスホテルまで歩いて帰った。大阪で泊まる折り、時々利用するホテルである。

道頓堀には、くいだおれ太郎がいた。ただ、手は動いていない。
理由は、こういうこと。節電である。
ホテルのベッドで少し横になり、8時前、通天閣を見に行った。通天閣100年は知っていた。だから、この日の夜は、新世界の通天閣へ行くつもりであった。

地下鉄の恵美須町駅で降り、通天閣本通りへ出る。
通天閣本通りには人も少ないし、先に見える通天閣も、節電で灯は点いていない。かろうじて、先端の灯かりが点いているのみ。

通天閣へ近づく。
通天閣の広告は、日立である。ずっと。
声を掛けられた時、松下電器(今のパナソニック)は断ったそうだ。それを知った松下幸之助、「なんで、東京の会社に通天閣の広告を取られなあかんのや」、と言って怒った、と言う。
そりゃそうだ。

通天閣の入口には、福之神・ビリケンのポスターが貼ってあった。
ビリケン、元々は、アメリカの女流画家が創りだしたもの。100年前、世界中に広まったそうだ。通天閣でも取り入れた。
上ろうかと思うが、「現在、35分待ち」との表示がでていたので止めた。

通天閣の下を越えて行く。ハデな店が次々と現れる。この店にもビリケンがいる。左手下の方に。

この店の右端には、白いビリケンもいる。

これぞ新世界、ディープ大阪という光景が次々と現れる。

その先には、ジャンジャン横町がある。

ジャンジャン横町を暫らく進むと、こういう所があった。古い写真が貼ってある。
初代通天閣の写真である。ここには、”今、甦”、と写っているだけだが、”通天閣の高さは三百尺でっせ”(実際の高さは、250尺)とか、”テーマパークの先駈け!100年前の新世界です”とか、”ルナパークの夜景、大正時代やで!”、といったキャプションがついている。

これは、その続き。”る大正ロマ(ン)”だ。
”凱旋門の上にエッフェル塔をのした初代通天閣。噴水があり、吹奏楽を聴き、夢のひと時でんな!”とか、”新世界恵美須門にライオン歯磨きの広告”がついたものとか、”初代通天閣より白塔までゴンドラが!”とか、”明治45年7月、新世界ルナパーク誕生、ほんまに新しい世界やってんで”、というキャプションが見られる。

ジャンジャン歴史横丁、その時代あなたは輝いていた!、なんて展示もある。
初代通天閣の写真がいっぱい。

その下に貼ってあるドハデなポスターは、こういうもの。
ハッピーバースデー新世界、とある。OSAKA GANGS 翔、浪花のやんちゃなお祭り娘、とある。新世界PR大使、とある。

ジャンジャン横丁には、当然のこと、将棋センターがある。
<吹けば飛ぶよな将棋の駒に〜・・・・・ぐちも言わずに女房の小春〜・・・・・空に灯がつく通天閣に〜・・・・・>、の”王将”の本家本元である。

通天閣の下には、王将・坂田三吉のこのような碑が建っている。

以前は、ジャンジャン横丁を抜け、釜が崎(あいりん地区)の近くまで歩いた。しかし、今はその気力はない。釜が崎まではきつい。ジャンジャン横丁の途中で引き返した。
前方に、通天閣の上の方の灯かりが見える。
それにしても、通天閣近辺の新世界、ドハデだな。

地下鉄の恵美須町駅には、このようなポスターが貼ってあった。
「ザ・タワー」展が、大阪歴史博物館で開かれている、というポスターだ。パリ、東京、大阪、と。
パリはエッフェル塔、大阪は通天閣だが、東京は、これは凌雲閣だよ。浅草の十二階だ。どうしてなんだ、と思うに、これは初代の通天閣ができた時代の」三都の物語であるらしい。
ま、そういうことなら、そういうことでいい、とする。
ところで、とても面白い本がある。
二鬼薫子著『通天閣物語』(1997年、鳥影社刊)という書である。大賞は逃したが、第1回の「21世紀国際ノンフィクション大賞(現在の小学館ノンフィクション大賞)」の最終選考に残った作品だ。この書、自費出版であるかもしれない。
とても面白い作品だ。
著者・二鬼薫子の一族の、およそ100年に及ぶ物語なんだ。
今、初代の通天閣を造ったのは、大林組とされているそうだ。しかし、二鬼薫子、『通天閣物語』の中で、そうじゃない、と言っている。著者・二鬼薫子の叔父、<中井由松が建てたんや、橋本鉄工所や>、という。
中井由松の父親・中井嘉三郎は、大和当麻から大阪に出てきた男だ。著者の二鬼薫子は、その孫に当たる。
中井嘉三郎、死んだ先妻との間に、中井由松も含め少なくとも14人の子供がいる。後妻との間には、二鬼薫子の母親を含め9人の子供がいる。凄い数である。
それはいい。何人子供がいようと。
通天閣がらみが面白いんだ。
1912年、今から丁度100年前の通天閣。
その頃、東洋一の高さの通天閣、さまざまな物語を紡ぎだした。庶民の大阪100年史でもある。