龍谷ミュージアム。

京阪神というが、その距離案外短い。大阪から京都まで、途中一つか二つしか停まらない新快速だと30分ばかり。
5月下旬、みんぱくを出た後京都へ行った。龍谷ミュージアムでの特別展「仏教の来た道 シルクロード探検の旅」を観るために。
龍谷ミュージアム、龍谷大学のミュージアム、仏教総合博物館と称している。西本願寺との結びつきは強い。堀川通りを挟み、西本願寺の真正面にある。

ユニークな外観である。
外壁、約4000本のセラミックルーバーによる簾。京セラの地元でもあるし。

龍谷大学の起源は古い。寛永16年(1639年)、西本願寺の学寮として始まった。
その創立370周年を記念して造られたのが、この龍谷ミュージアムだそうだ。だから、まだできたばかり。私も初めて訪れた。

それにしてもこのセラミックの簾、京都らしいデザインというばかりでなく、直射光を遮る省エネ機能を持っている、という。

堀川通りに面した1階はガラス張り。

近寄ると、特別展の大きな幕。

中へ入る。
とてもシック。

会場内はカメラは許されていない。で、求めた図録から何枚か複写しよう。
モノを増やすのではなく、整理をして、減らしていかなければならない年代となっている私、このところ、原則として、展覧会の図録は買わないようにしている。しかし、その原則は、往々にして崩れる。今回のように大谷探検隊のことが出ている図録などをを見ると。仕方ない。

左はコータンの仏頭部、銅造鍍金。右はミーランの有翼天使像壁画、漆喰彩色。共に、大谷探検隊将来品である。今、東博にある。
特に、左の小さな仏頭は、東博での私のお気に入りのひとつである。


この二つも大谷探検隊の将来品。
今、東博の所蔵となっている塑造彩色の菩薩頭部。

浄土真宗本願寺派、西本願寺第22世門主・大谷光瑞、1902年(明治35年)から1914年(大正3年)にかけ、3度に亘り中央アジアへの探検隊を派遣している。いわゆる大谷探検隊である。
1902年〜1904年の第一次探検隊には、大谷光瑞自身も参加し総勢6名。
1908年〜1909年の第二次探検隊は、橘瑞超と野村栄二郎の2人。
1910年〜1914年の第三次探検隊は、橘瑞超と吉川小一郎の2人。
これは、馬票。
こういうものを持って歩いたんだ。

これも面白い。
「お前、インドへ留学しろ」、という西本願寺からの辞令だ。

橘瑞超の著作。

19世紀後半から20世紀初めにかけては、主に西欧列強による中央アジア探検のピークであった。
イギリスのオーレル・スタイン、スウェーデンのスウェン・ヘディン、ドイツのアルベルト・フォン・ル・コック、フランスのポール・ペリオ、ロシアのセルゲイ・オルデンブルグ、・・・・・。
大谷光瑞、その中に割って入った。西本願寺のあり余る潤沢な資金を投じて。その根底には、仏教の来た道を究めようという思いが、当然ある。
上の写真は、明治41年、日本を訪れたスウェン・ヘディンと大谷光瑞の記念写真である。
前列右から2人目が大谷光瑞、左から2人目がスウェン・ヘディン。その間にいる女性は大谷籌子、大谷光瑞の妻である。大谷家、皇室とは深く繋がっている。大谷光瑞の妻も、大正天皇のお后・貞明皇后の姉にあたる人。


龍谷ミュージアムには、中国新疆ウイグル自治区トルファン郊外にある、ベゼクリク石窟の復元展示もある。
ベゼクリクの石窟、10数年前に訪れた。
ひどい状態であった。石窟の壁画、西欧列強の探検隊によって多くが剥がされていた。研究のためと言って、壁画を剥がして持ち帰った。西欧列強の探検隊は。
龍谷ミュージアム、その壁画を復元した。高さ3.5メートル、長さ15メートルにわたる大回廊を復元、展示している。これも興味深いものである。
龍谷ミュージアムを出てふり返る。
たしかに、京都らしいミュージアムだ。