パリ+リスボン街歩き  (12) ポンピドゥー。

巨人、シャルル・ド・ゴールが打ち立てたフランス第五共和制、現在まで6人の大統領を輩出しているが、今のニコラ・サルコジを除き、他の5人は、さすがフランス大統領、なかなかの人ばかり。何より、文化人、教養人である。サルコジ、そして、2日後にはサルコジに変わるであろうオランドには悪いが、このお二人とは較べるべくもなき大人ぞろいである。
初代大統領のシャルル・ド・ゴールは、大巨人であるが、とても謙虚、つつましやかなお人柄であったそうだ。
死に際し、「国葬にはするな。葬儀はごく親しい人だけで簡素にしてくれ」、との遺言を残したそうだ。困ったのは、時の大統領、ジョルジュ・ポンピドゥーだ。「ド・ゴールを国葬にしなければ、国葬という制度、フランスから永遠に消えてしまう」、と思ったに違いない。おそらく。
結局、ド・ゴールは国葬となった。ま、当然だ。勲章その他の栄誉もすべて辞退する、という遺言も反故にされた。
フランスを代表する”これは”というものには、ド・ゴールの名がつけられた。パリの国際空港しかり、凱旋門のあるエトワール広場もシャルル・ド・ゴール広場となった。その他、これはというもの、シャルル・ド・ゴールである。
2代目のジョルジュ・ポンピドゥー以下の歴代大統領も、文化人ぞろい。
ポンピドゥーは、就任直後から、大きな文化センターを造ることを考えていた。退任後、1977年に完成した今のポンピドゥー・センター、ジョルジュ・ポンピドゥーの名がつけられた。
第3代目のヴァレリー・ジスカールデスタンは、後年、アカデミー・フランセーズの会員に選出されている。
第4代目のフランソワ・ミッテランは、ルーヴルのところでも少し触れた。今の大ルーヴル構想の立役者。しかし、そればかりじゃない。大統領に就任した後、フランス革命200周年の1989年に、パリに第二のオペラ座を造る、という構想を打ち出す。
パリのオペラ座、オペラ・ガルニエは、凄いオペラハウスである。それとは別に、素晴らしいオペラハウスを造る。それも革命発祥の地・バスティーユに建設する。オペラ・バスティーユ、1989年に完成する。このオペラ座も素晴らしい。ミッテラン、大男のド・ゴールと反対に小柄な男であったが、第五共和制の大統領として、ド・ゴールに次いで人気がある。
第五共和制5人目の大統領、ジャック・シラクは、考えた。
ド・ゴールは、偉大だ。敵わない。ポンピドゥーは、ポンピドゥー・センターを造った。ジスカールデスタンは、アカデミー・フランセーズの会員になった。ミッテランは、ルーヴルにピラミッドを造ったり、オペラ・バスティーユを造ったりした。オレは何を造るか、と。
そうだ、新しい美術館を造ろう。原始美術、民族美術に特化した美術館を造ろう、と。そうしてできたのが、2006年に開館したケ・ブランリー美術館である。
エッフェル塔のすぐ近くにあるバカデカイ美術館。4年半前に観に行った。アジア、オセアニア、アメリカ、アフリカ、各地の作品というか産品というか、そういうものが並べられている。私は、面白くなかった。表層を撫ぜただけのような印象を持った。
しかし、ケ・ブランリー美術館は面白くなかったが、ジャック・シラクは、なかなかの男である。日本贔屓の男である。来日回数も半端じゃない。日本の芸術が好き。大の相撲ファン。相撲の愛好家というだけで、その教養の高さが思われる。
相撲取りをただのデブと切り捨てたサルコジは、この点だけでも、教養人であることが求められるフランス大統領に相応しい、とは言えない。他文化を認めずして、教養ある人とはなれないこと自明の理。
オッと、ポンピドゥー・センターについて書こうとしていたのが、いつの間にか横道に迷い込んだようだ。
ポンピドゥーに近づいて行こう。

狭い道の向こうに見えてきたものは・・・

このようなもの。赤いな。

こちらは青い。

ポンピドゥーの裏だ。
白い排気孔のような大きなラッパのようなものもある。

こちらは表。
右下の方に、ポンピドゥーに入るために並んでいる人が見える。ミューゼアム・パスを持っていない人たちだ。

ポンピドゥーの前の広場。
大きな白いラッパのようなものが幾つも。子供たちがハトを追いかけている。子供が走るとハトは飛びたつ。
ずいぶん昔、この広場に似顔絵描きが大勢いた頃、描いてもらったことがある。1時間くらいかけ、丁寧に描いてくれた。今、私の部屋に掛けてある。今、ここには似顔絵描きは少ない。私を描いてくれた男は、今、どうしているか。私と同じような年恰好の男であったが。

ムカデのようなものは、エスカレーターである。
1977年、ポンピドゥー・センターができた時、”なんじゃこれ”という声があがったそうだ。
パイプとガラスの建物。第一、これで完成しているのか。まだ建造途中なのではないか。何やら、鉄骨のようなものがあちこちに露出している、と言って。
しかし、パリという町は、懐が深い。
百年少し前、エッフェル塔ができた時にあった”なんじゃこれ”論争と同様、パイプが組みあがっているのか、いないのか、というポンピドゥー、パリの町に溶け込んでいく。
いや、ポンピドゥー・センターの建物そのものが、作品なのだ。

少し上から見た広場。白いラッパも見える。

一部ではあるが、屋根の上にも出ることができる。
そこにも作品がある。

向こうの方を見ると、屋根の向こうにエッフェル塔が見える。

北の方を見れば、モンマルトルのサクレ・クールが見える。パリのあちこち、すぐそこにある。狭いんだ。
明日から暫らく、ポンピドゥーの中に入る。