パリ+リスボン街歩き (11) ルーヴル(続き×5 光と闇)。

ルーヴルに入った後、15、6世紀のオランダ、ドイツ絵画を観たのだが、その後19世紀のフランス絵画の方に進んでしまった。ドゥノン翼からシュリー翼の方へ行ってしまった。フェルメールは逆の方へ戻らなければならない。同じ3階だが、ドゥノン翼。
フェルメールは、一期一会ではない。行く度にたいていは会っている。現存作品は、全世界で30数点。全点踏破を試みている人も多くいるが、私が観たのは半分程度。

フェルメール、ルーヴルには2点ある。「レースを編む女」と「天文学者」の2点。
実は、フェルメールの作品には、”ンッ、フェルメールだ”、というものと、”これもフェルメールなんだよな”、というものとがある。現存する作品、30数点しかない超人気作家に、こんなことを言っている人は誰もいないが、私は、秘かに、でもなくそう思っている。
ルーヴルの2点は、共にこれぞフェルメールという作品。

「レースを編む女」。
板に貼ったカンヴァスに油彩。1670〜71年に描かれた。天地24センチ、左右21センチ、というとても小さな作品である。
レースを編む女の顔、そして、その手許に光が当たっている。フェルメール、光の画家である。外の光が部屋の中に入ってくる様を描く。
50年少し前になる。サルヴァドール・ダリは、この作品の前で模写をした。この小さな作品の前でイーゼルを立て模写をするダリの姿、その頃の新聞か雑誌で見たような記憶があるような気がするのだが。果たしてこの記憶、確かなのかどうなのか。それは、よく解からない。
しかし、ダリが、フェルメールのこの作品に触発されて、”偏執狂的、批判的習作”を為したのは事実である。今、ニューヨークのMomaにあるはずである。

「天文学者」。
左上の窓から入った光が、天文学者の顔を照らす。手を伸ばした天球儀にも。光の画家・フェルメールが得意とする状況設定だ。
<フェルメールは絵画で食べていたわけではない。かなり裕福な一族がパトロンとなり、彼から絵画を購入したり金を貸してくれた。こうした画商としての仕事があるため、彼の制作活動は年に2〜3作品に限られていたが、同時に私生活の光景や何らかの研究を行なっている場面だけを主題に選べるという自由もあった>、とルーヴル書にはある。
主要作品を300点の写真に撮り、解説を加えた10年ほど前のルーヴル書のひとつには、こういう記述がある。
フェルメール、描きたいものだけを、楽しんで描いていたようだ。光がこう入ってきて、ということに考えを巡らしながら。

この人たちが観ているのは、左端の絵である。
何やら、明るいところと暗いところが極端な絵。ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの作品だ。
ジョルジュ・ド・ラ・トゥール、1593年に生まれ、1652年に死んだフランスの絵描き。聖書に基づいた作品を多く描いている。それ以上に暗闇と光を描いた画家として知られる。


この壁面には、ラ・トゥールのこの3点のみが掛けられている。
左から、「悔い改めるマグダラのマリア」、「聖イレネに介抱される聖セバスティアヌス」、「大工の聖ヨセフ」の3点。
いずれの作品も、闇の中に光が灯る。
フェルメールの光とは異なる。外からの光ではない。蝋燭であったり松明であったり、という光である。その光が、闇を照らし出す。

ジョルジュ・ド・ラ・トゥール、同じ主題の絵を多く描いている。この”悔い改めるマグダラのマリア”も、4〜5点あるようだ。蝋燭が2本であったり、細部は異なっているようだが。
暗闇の中に灯る蝋燭の光、400年後、LEDの今の時代に、強いメッセージを発してはいないだろうか。

この灯かりは、松明だ。聖イレネが松明の光に照らされている。

蝋燭の灯に照らし出される大工の聖ヨセフと、幼子である主・イエスを描いたものだ。共に、蝋燭の灯に照らし出されている。
闇の中に浮かび上がる、イエスの義父である大工の聖ヨセフと、主・イエス。幼子・イエスの手は、蝋燭の光によって透きとおっているように見える。
たまたま”光”という共通項で括ったフェルメールとラ・トゥールの物語である。
訪れる度に、一期一会、何と出会えるのか解からない。ま、そうであるから面白い。この次は何があるか、と。
ルーヴル、このあたりで千秋楽とする。