解かっても、解からなくても。

美術展のタイトルなど、そのものズバリその通り、という即物的なものか、何だかよく解からないな、というモヤモヤとしたものかのどちらかである。
4月15日まで、DIC川村記念美術館で開かれている企画展・「抽象と形態 何処までも顕れないもの」展は、その両者を合わせたようなもの。主タイトルの”抽象と形態”は、まあ、前者。それを補うサブタイトルは、ウーン、後者となろうか。両者合わせて何となく、という典型だ。

庭内の案内板。
ポスターに描かれているのは、五木田智央の≪Scorn≫。

企画展のパンフレット。2種、2パターンある。
メーンに扱われている作家は、五木田智央(左)と、大家のサイ・トゥオンブリー(右)の作品。
五木田智央、1969年生まれというから、今、42〜3歳。ニューヨークはじめ海外のアートシーンで、今、上り調子の作家だ、という。私は、知らなかった。初めて知った作家である。
たしかに、よく見てみると、時代を画する作家には必要な独創性はある。創作の世界で言えば、独創性。しかし、世間一般の言葉で言えば、発明とか発見とかということに近い。しかし、それが必要だ。創作物、商品でもあるのだから。

何とか読めるのでは、と思う。
DIC川村記念美術館の学芸員は、このようなことを考えてこの企画「抽象と形態 何処までも顕れないもの」展を催した。

上の写真の作家とタイトル。これも何とか読めるのではないか。
五木田智央の≪Scorn≫をはじめとする作品群の中に、パブロ・ピカソの≪シルヴェット≫が掛かっている。共に、女性の顔が描かれている。しかし、それがどうした、ということか。
この企画展、時間が丁度よくて、2時からのガイドツアーに参加した。ガイドツアーの女性の人の話すことをまじえ書くとしよう。
五木田のこの作品、白と黒で描かれている。つまり、グレー、モノクロームだ。でも、色彩が見える。ピカソのこの作品も、白と黒。実は、そこに茶色が少し加えられているのだが。共に、モノクロームと見えて、そうじゃない。それを対比している。これは、ガイドの人の言うこと。そうか、と思う。しかし、それがどうした、とも思う。これは、私が思うこと。
3番目の角田純の≪Maina≫と、5番目のジョルジョ・モランディの≪静物≫ではどうか。抽象とも半具象とも、共鳴し合う何かが、ということらしい。どこかでくっ付ける。ガイド+私。

1番目の大きく扱われているのは、サイ・トゥオンブリーの作品≪無題≫。吉川民仁、そのサイ・トゥオンブリーの作品に影響を受けていた、という。9番目の作品が、吉川民仁の≪対話≫。”共に、形態や色彩を記号的に扱いながら、そのバランスに独自な調和がある”、とガイドツアーの女性は話す。
7番目の野沢二郎の≪水面/反映≫と、6番目のモネの≪睡蓮≫は、共に、水面への写りこみにより、観賞者の視線を上方へと導いていく、ということだそうだ。ヘタなことは言わない。そうか、よくぞ考えたものだ、とだけ言う。
最後の10番目、フランシス真悟の≪深淵(紫)≫には、ここには出ていないが、サム・フランシスの作品が合わさっていた。フランシス真悟、サム・フランシスの息子だそうだ。母親は、出光佐三の娘だという。ガイドツアーの女性、そういうことも話す。
そうか、そうなんだ。日本や中国美術に特化した出光美術館に、どうしてサム・フランシスの作品があれほど多くあるのか、永年不思議に思っていた。だが、これで解かった。出光佐三、娘婿の尻を精一杯押していたんだな。石油のカリスマとは言え、娘には弱い。
美術展とは、下世話な話で、少し離れたか。

夕刻のDIC川村記念美術館のある庭内、冬の静寂につつまれていた。