岩手あちこち(9) 遠野(プロジェクトNext)。

あの大震災から間もなく1年となる。
私のこの雑ブログ、熱心にお読みいただいている人がおいでになるなどということは、夢々思いもいたしてはおりませんが、もし、万が一そういうお方がおいでになればの話。
大震災後、友人から頼まれ、二度、世のため人のために活動されている人のことを紹介したことを憶えておられるのでは、と。
一度目は大震災直後、古い友人・Hからの依頼で、横須賀さんという山岳ガイドの方の低体温症対策。
二度目は6月18日、3年前カトマンドゥの食堂で偶然知り合ったイニシャルは同じHさんからの依頼。岩手県の遠野にボランティアで被災者支援をしている人がいる。その人のユニークな支援活動がNHKで取りあげられるので、多くの人に見てもらいたい。大した人だ。是非、拡散を、というもの。
紹介した。
NHKの番組も見た。打越岳さんという遠野の歯医者さん。献身的な支援活動を行なっている。その時には、主に津波被害の酷かった山田町への支援活動を行なっていた。今は、北は山田町、南は大船渡から陸前高田まで、という範囲だそうだ。
孤立した集落や支援が行き届かない人たちへの支援。被災者が何を必要としているかを聴きとり、ウィッシュリストを作り、Amazonに掲載、全国から購入して送ろう、という人に買ってもらい、被災者へ物資を送り届ける、というシステム。それをWeb上で写真で公表する。
○○県の何々さんから送っていただいた○○は、今日山田町の被災者の方へお届けしました、というコメントを付けて。
打越さん、顔が見える支援、と言っている。たしかに、そう。支援をした人も、オレが送った米はこれこれの人に届いたのか、ということがよく解かる。だから、継続することができる。
支援というもの、一過性のもので終わってはならない。継続が必要。特に、3.11の大震災のようなケースには、何年、何十年と続く継続性が。それ故、この方式、考え抜いたシステムだと言える。
その後、何度かメールのやりとりをした。ささやかなカンパを振り込んだこともある。何かアクションがあると、すぐメールをくれる。忙しいだろうに。だから、遠野に行ったら一度お会いしようかな、と思っていた。が、連絡はしなかった。歯医者に加え支援活動、超多忙であるだろう、と思い。
私は、1月20日の昼すぎに遠野に着き、博物館や柳翁宿などに行き、夕刻からは、食堂に入り、一杯やりながら相撲中継を見ていた。相撲が終わった後は、NHKの盛岡放送局からの「おばんです」というローカルニュースを見ていた。一杯やりながら。
診療が終わり、夕食も終わった後は、打越さんは恐らく支援活動の手はずでもしているのでは、と思い、訪ねようか、とも考えた。しかし、メールのやりとりは何回かあるが、会ったことはない。いきなりの初対面、酒を飲んだ後というのは、如何に何でも失礼だ。明日にしよう。診療の合間の昼休みの時間に、と。
で、電話した。打越さん、昼休みの時間には行くところがある、という。その後、診療時間ではあるが、その合間に会いたい、2時40分に来てくれ、とのこと。駅の待合室で暖をとり、打越さんを訪ねた。

打越さんの歯科医院、駅のすぐそば。その歯医者の建物の裏に、この倉庫がある。

倉庫の中、生活支援サンプルBセット、5セット入りの段ボールや、BB菌・カビとりハンターの段ボールや、らーめんやしょうゆの段ボールが積まれている。
<小さな団体だから、できる支援があります。小さな団体だから、困っていることがあります>、というポスターも貼ってあった。スタッフの予定表のようなものも。<タイヨウ学園 31コ、大船渡市 33コ、陸前高田 138コ>、という書きこみも。
後ろ向きで黒いオーバーコートを着ているのが打越さん。


この時、山田町から来ている3人の人がいた。年かさの女の人が二人、それに運転をしてきた男がひとり。


これも持っていきなさい。お米も持っていきなさい。打越さんがそういう度に、年かさの女性のひとり、ウウッ、と嗚咽する。何度も、その度ごとに。感極まったのであろう。”この世には、仏さまがいるんだ”、と思ったのかもしれない。
「いいんですよ」、と言って打越さん、その人の肩を抱く。スタッフの女性も。この女性、本来は歯科医院の看護婦さんなんだ。それが、去年からは支援活動の専従となっているそうだ。歯科医院からの派遣。会計士の助言もあり、今はNPOの方から何とか給料を出しているそうだが、大変な模様。
しかし、この人、感じのいい人であった。本来は歯科医院で働いているはずなのに、大震災の被災者支援活動に従事している。にこやかに働いていた。

支援倉庫を横から見る。
この倉庫、元は車を止めていたスペースに造ったそうだ。プロジェクトNextのマークが貼ってある。

その後、ここで暫らくお待ちを、と言って案内されたところ。
院長室として使っていた部屋だそうだ。ここにもプロジェクトNextのマークが貼ってある。中で打越さんを待つ間に見たら、向こうにかかっているTシャツは、PRAY FOR JAPANのもの。袖にはプロジェクトNextのマークがついている。
打越さんは、オーバーコートを脱ぎ、青い診療着に着がえ診療に行った。

開いているパソコンの画面も、プロジェクトNext関連のものだった。
暫らくして戻ってきた打越さん。年を聞くと、44歳、今年45になるという。40代半ば、働き盛りだ。少しの時間であったが、支援活動の話を聴く。
今、ボランティアの人も少なくなっている、と聞く。たしかに、そのようだ。打越さんの支援活動、今、一般社団法人「プロジェクトNext」として、多くの人が支えている。打越さん個人の限界を越えたものとなっているが、それでも打越さん個人が為すべきこと数限りなくある模様。昨年は、朝4時、5時まで、ということも多かった、という。
また、打越さん、こうも語る。「今、ボランティアの人は、被災地の人です。彼らも生きていかなければならない。今、ボランティアの体力が求められています」、と言う。その体力、経済的体力だと言う。経済的に立ちいかないと、ボランティアと言えど、立ちいかない、と。厳しい。
昨年の11月までは、山田町などの被災地へ、毎日支援物資を積んだ車を出していたそうだ。打越さん自身が行くのは、歯科医院の休診日であるが、他の日は支援のスタッフが運ぶ。ガソリン代その他、支援活動にはさまざまなコストがかかる。倉庫に貼ってあったポスターには、「支援するわたしたちを支えてください」、とも書いてあった。たしかに、そうだ。
昨年の大震災、何とかなるには、あと10年はかかるだろう。それまで支えなきゃ。日本国民ならば。日赤でもどこでもいい、日本人、あと10年支援をすることが必要だ。
ささやかなカンパを置いて打越歯科医院、プロジェクトNextを辞した。
打越さんの支援活動の様、「プロジェクトNext」で検索していただきたい。そして、でき得れば、支援をしていただきたい。今なお厳しい状況にある被災者のために。是非に。
4時前の汽車で釜石へ行く。