三陸沿岸紀行(11) 山田。

岩手県北バスを道の駅やまだで降りる。乗換えだ。釜石へは岩手県交通のバスで行く。待ち時間は1時間10分。
道の駅やまだの中に入る。中は広い。

あちこちに<がんばってます!山田町!!>。
小さな案内所があった。
係の女性に「山田湾の方に行くにはどのくらいかかりますか?」、と訊いた。「私の足で10数分です」、との答え。それなら、私の足では16、7分か20分弱。行き方も分かりやすい。コインロッカーの場所を訊いたら、「ここへ置いてってください。預かりますよ」、と言ってくれる。ゆっくりと行ってみた。

このクジラの絵がついた<歓迎>と書かれた向こうには、「鯨と海の科学館」とか船越家族旅行村とかの施設があったらしい。
ここを入っていく。

「長林跨線橋」と読める。
あの日まで、この下をJR山田線が走っていたんだ。

このような看板も。

この道を下っていく。

暫らく歩くと左の方に山田湾が見えてくる。

右手の方は、一面の更地。このあたりすべてが津波に襲われた。
右の方に「鯨と海の科学館」の建物が見える。

「鯨と海の科学館」、こうして外観だけを見るとさほどの被害を受けているとは思われないが、閉められたままである。おそらく、外側だけが何とか残った、という状態であろう。

向こうの方には、多くの土が盛り上げられている。嵩上げをしているものと思われる。
2011年3月11日、このあたりは10メートル前後の津波に襲われた。

左手の山田湾の方へ目を転じる。
この右の方にはあの日、13.91mとか14.52mといった津波が遡上した。

湾内には、多くの養殖筏が浮かんでいる。
道の駅やまだに戻った後、案内の女性に訊いたら、カキやホタテの養殖筏、とのことだった。
それにしても、とても美しい。

ところでこの日、私は上図中ほどやや左の「道の駅」から北へ少し歩き、右へ折れ、小さな赤い丸印(津波浸水高10.51m)の少し手前まで行き、戻ってきた。
右手に「鯨と海の科学館」や嵩上げの土を見、左手に山田湾を見て。
ところで、私は、右手の方では、10メートル前後の「津波に襲われた」、と記した。山田湾の右方では、13.91mとか14.52mといった「津波が遡上した」、と記した。
今までにお気づきの方もおられるであろうが、私は、「津波浸水高」あるいは「津波に襲われた」と、「津波の遡上高」あるいは「津波が遡上した」という表現を分けて記してきた。八戸や久慈以来ずっと。
少し分かりづらいが、前者は赤い丸、後者は緑の逆三角である。

初めの頃に記した原口強・岩松暉著『東日本大震災 津波詳細地図 上巻 青森・岩手・宮城』の凡例を複写する。

戻る途中に気がついた。
道路わきのパイプの柵、グネグネ曲っている。あの日のままだ。

戻る道から見た高台の町並み。道の駅やまだもこの中にある。

行きに見たクジラの裏側だ。
右は宮古方向、左は釜石方向。

道の駅やまだの屋根の上には、こういう文言が。
<がんばろう大槌!、岩手!、宮古!>に挟まれて、<がんばってます山田!>とある。山田町、頑張っている。
山田町と言えば、遠野の歯医者・打越岳さんのことを思い出す。
大震災の後、山田町の被災者を支援する打越さんのことをこのブログに記した。大震災の翌年初め、遠野に打越さんを訪ね、お話をうかがい、その活動の模様を記した。
打越岳さん、今も頑張っておられる。打越さんが立ちあげた「プロジェクトNext」、山田町ばかりじゃなく三陸沿岸の町々に支援活動の輪を広げられている。
三陸沿岸の地を巡ると解かる。
あの大震災からの復興、5年や10年で終わるものではない、ということが。