十八界能面展。

ひと月以上前になるが、先月初め、銀座静月堂画廊で十八界の能面展があった。
30点ほどが出品されていたが、十八界の主宰者・岸本雅之の作品3点のみを紹介する。

左から、狂言面 賢徳、能面 小獅子、能面 万媚。

狂言面 賢徳。
<横睨みの丸い瞳と口辺が凹んだユーモラスな顔。縫いぐるみ姿に黒頭をつけ、馬、牛など動物の精に用いる>、と説明書きにある。
なお、岸本雅之主催の十八界彫刻教室は、能面を打つことが主であるが、狂言面、伎楽面、また、仏像など、こと面に関することならどのようなものでも教えているそうだ。

能面 小獅子。
出品作、いずれも今年打たれたものだが、作品に時代をつけるのも重要なテクニックのひとつ。この面など、いつ打たれたものか、と思わせる。さすが。
小獅子は、<小ぶりの獅子口。親子の獅子舞のときに用いる「石橋」の専用面。文殊菩薩の住む浄土・清涼山を隔てる深い谷に架かる石橋へ現れて舞う獅子>、との説明。

能面 万媚。
万媚、名の通り。たしかに妖しげな色香を漂わせる面である。美しい。
説明書には、<小面に似た色気の多い面。目元、口元に媚を含んでいる表情から万媚の名を得たという。「紅葉狩」「殺生石」などに用いる>、とある。即物的な説明であるが、たしかにそう。
岸本さんとは、去年たまたま知りあった。能面に関し、丁寧に教えてくれる人である。話すのを楽しみにしていた。ところが、長々と話している人がいる。典型的な話好き。おまけに、お能や能面に関しやけに詳しい。困った。
その人、こういうことを言っているんだ。
能は素晴らしい伝統芸術である。しかし、能を演じることによって食っていくことなど到底できない。名のある能役者であろうとも。何らかの副業で食っていかざるを得ない。面打ちも当然同じだ。面を打つことだけで、食ってはいけない。憂うべきことだ。国が守らなければいけない。国が金を出すべきだ。
実は私、よろず何ごとによらず、国がどうこうとか、政府の対応がどうこうとか、といった物言いに、いささか違和感を持っている。放射能であろうと何であろうと、よろず全てのことごとに。全ての帳尻を国に持っていく風潮には、どうも馴染めない。
能面は、美しい。国の援助があってもいいが、たとえ無くても、それはそれでよし。自らの力で生き延びろ。美しさを武器に。いやでも聴こえてくる話好きの人の話すことを聞いている内に、そんなことを考えた。
私が岸本さんと話す時間は限られた。
私は、国のことなど話さない。おそらく、元々からの面打ちはないだろう。彫刻から入ったのかな、と思った。ところが違う、大学は経済だそうだ。それが、ある時からお面を打つことに専念することになったらしい。面白いものだ。
岸本さん、頭蓋骨の標本を取りだしてきた。

横にある面は、般若の面であるが、いずれの面でもそれぞれの位置関係、厳密に推し量っている、という。実際の人間の頭蓋骨の構造を参考にしている、という。
現実に沿い、それを超えた状況のさまざまな表情の面を紡ぎだす。それが面打ち。個の世界だ。
ついでながら、余計なことをひとつ。
岸本雅之、写真は出さないが、スキンヘッドの美形。海老蔵を少し茹でて灰汁出しし、洗練された知性をふりかければこうなるな、という美丈夫。余計なことではあるが。

2〜30年前、或いはもっと前から国立博物館の会員となっている私は、東博へはよく行く。多い時には、月に3〜4回。
東博の本館の14室は、特集陳列室である。2か月周期ぐらいで特集が組まれる。今月初めからは、「日本の仮面」の展示となっている。さほど多くはないが、伎楽面、舞楽面、能面、その他の面が展示されている。その中に、この面があった。
安土桃山から江戸時代初期にかけて打たれた能面 万媚。
4〜500年前に打たれた能面 万媚、随分傷んでいる。傷ついてもいる。でも、名の通り、万の媚態の残り香はある。