ボスと駒。

日常を離れ、幾つかの映画のことを書く。
ふた月近く前に観たものだが、今日はこれ。

『ブラックスワン』、今年上半期で、最も話題を呼んだ作品ではなかったか。
監督は、ダーレン・アロノフスキー。前作『レスラー』同様、濃い映像。

「世界中の映画祭を席巻!」、という惹句に偽りなし。各国映画祭で112部門にノミネートされ、48部門で受賞。
何より、主演のナタリー・ポートマン、アカデミー賞はじめ主演女優賞19冠。アロノフスキーによる、ポートマンのための映画。

ふた月近く前で、興行収入3億ドル。いかに世界中でヒットしたか、よく解かる。

ニューヨークのバレエ・カンパニーの若いダンサー、『白鳥の湖』の主役に抜擢される。技術は、持っている。しかし、白鳥は完璧だが、黒鳥はなっていない。彼女を抜擢した振付師、そう言うのだ。まったく官能的な踊りではない、と。
そこから、現実と幻覚の世界が始まっていく。夢かうつつか解からぬ世界が入り混じり。
ボスである振付師、それまでのプリマ、ライヴァルである若いダンサー、さらに、主役の彼女を産んだがため、バレエダンサーの道を諦めた母親をも巻きこんで。心理劇、サイコホラーでもある。皆ギリギリまで突き詰める。特に、彼女を抜擢した振付師。
バレエというもの、異次元の肉体芸術である。スピン、ジャンプ、常ならざる技である。何よりも、その肉体が常ならない。美しい。その肉体で究極の美を追い求める。ダンサーもだが、振付師は猶のこと。何故にそれほどギリギリの究極を求めるの、と思うくらい。
かてて加えてバレエの世界、そこに、男と女ばかりじゃなく、男と男、女と女、という世界も入り混じる。美しい肉体を持つ世界であるがこそ、猶さらに。『ブラックスワン』の隠れたテーマも、そこにある。私は、そう考える。
多くの評に見られる、白鳥は完璧に踊れるが、黒鳥の官能的な踊りはどうこう、なんて言うものではない。そんな見方は単純に過ぎる。美しい肉体で表現するバレエの世界は、究極の完璧さを求める異次元の肉体の世界、と思わなければ面白くない。
さらに、振付師とダンサーの関係。アロノフスキーの『ブラックスワン』、それをよく表していた。だから、面白い。

実は、バレエが好きである。始まりは、20年近く前のミラノのスカラ座。ミラノに着いた日、当日券が買えると聞いた。チケット売り場が解からなくて苦労したが、天井桟敷のチケットが買えた。1000円もしなかった憶えがある。
ヌレーエフが死んだ直後で、たしか、ヌレーエフ追悼の演目だったような気がする。幕間に、正面のバルコニーに出て、シャンパン片手にタバコを吸い、周りの連中とカタコトの会話を交わしていると、異空間に迷い込んだ感じがした。
それ以来、病みつきになった。ヨーロッパへ行くたびに、あちこちのオペラハウス(多くのオペラハウス、オペラとバレエを交互に上演している)へ行くようになった。
何より、安い。特別なケースを除き、当日券も買える。大抵の場合、当日残っているのは、高い席か安い席。それでも、高くて100ユーロ前後、安い席だと8ユーロ程度。今日の為替レートだと、高い席でも1万ちょっと、安い席だと1000円もしない。日本に較べりゃはるかに安い。それはともかく、
赤江瀑の小説に、『ニジンスキーの手』という作品がある。
読み巧者・山田詠美が選んだ日本文学秀作選『幸せな哀しみの話』(文春文庫、2009年刊)に収載されている一篇。ニジンスキーの再来と呼ばれた日本人舞踊家の数奇な運命を描いた作品だ。
ニジンスキー、20世紀初頭、ディアギレフに率いられたロシアバレエ団・バレエ・リュスの踊り手。天才と謳われた。しかし、ボス・ディアギレフとの確執で若くして姿を消す。ボスであるディアギレフが、ニジンスキーを潰す。バレエの世界の通念、ニジンスキーとディアギレフの間には、男と男の関係もあったのだから、その感情、より複雑だ。
ニューヨークのバレエ・カンパニーの花形ダンサーである、弓村高と言う名の日本人天才舞踊家も、ボスとぶつかる。バレエ団の主宰者であるボスが、弓村高の振付けを妨害する。ニジンスキーが『牧神の午後』を振付け、パリ中の評判を取った時、ボスであるディアギレフが取った行動と同じように。
赤江瀑、作中の人物に、ボスとダンサーの関係を、こう言わせている。「ボスと駒」、と。
バレエの世界、極限まで突き詰めていく。ボスも駒も、どこまでも。そこに、男と女、男と男、女と女の関係も絡みつく。『ブラックスワン』も同じ。だから、面白い。