月桃の花。

今から15年前の1996年、一本の映画が作られた。”沖縄戦終結50周年記念作品”として。
タイトルは、『GAMA 月桃の花』。
その後、営々として上映会が続けられている、という。その映画完成15周年記念の上映会が、一昨日、新宿であった。

会場に着くのが少し遅れた。既に始まっていた大城将保の舞台挨拶の声が、ホールの外まで聞こえていた。
大城の名、本土では沖縄に関心がある人以外、さほど知られていないのでは、と思われるが、沖縄では著名な歴史家であり作家である。私の学部のクラスメート。当時の総長は、大浜信泉という高名な法学者、沖縄の人であった。それ故か、沖縄から本土の学校へ、という連中は、まず大浜信泉の大学へ、と考えたようだ。大城もそうだろう。
それはともかく、この映画『GAMA 月桃の花』の原案、脚本が、大城将保。大城のペンネーム、嶋津与志名で。
大城には、多くの著作があるが、『沖縄戦 民衆の目でとらえる戦争』、『昭和史のなかの沖縄 ヤマト世とアメリカ世』、『沖縄戦の真実と歪曲』などといった歴史研究書は、本名の大城将保の名で、『かんからさんしん物語』、『琉球王国衰亡史』などといった創作ものは、嶋津与志の名で、と使い分けているようだ。

1941年12月8日から4年近く、日本は、アメリカはじめ世界を敵にまわし戦った。しかし、唯一、地上戦の場となったのは、沖縄のみ。
1945年の夏、沖縄で何があったのか。
それを問い続けているのが、この映画『GAMA 月桃の花』だ。
なお、GAMA、ガマとは、沖縄のあちこちにある鍾乳洞。激烈な砲爆撃の下、また、圧倒的な火力の米軍が上陸した後、沖縄の人たちが最後に逃げ込んだところだ。
大城将保には、ガマをテーマにした戯曲もあり、もうずいぶん前だが、たしか、六本木の俳優座劇場で、東京公演を行なったことも思い出す。そのころNHKのドラマで全国区となった”沖縄のオバア”・平良とみが主演であった、と思う。古いクラス仲間と観にいった。
その芝居(記憶、おぼろげになっているが)もそうだったようだが、この映画でも、沖縄の人の敵は、米軍ばかりではない。
GAMA、ガマ内での”集団自決”のことも出てくる。”日本軍の強制による沖縄の人の集団自決”の問題だ。

20日近く前、4月21日、最高裁は、いわゆる「大江・岩波沖縄戦裁判」の原告側の上告棄却を下した。
”軍命による集団自決はなかった”として、大江健三郎と岩波書店が訴えられていた裁判だ。最高裁、大江と岩波側に、理あり、とした。大城将保、この裁判にも関わっている。
ホールに入る時、何枚かの紙片をもらった。「沖縄タイムス」の4月25日のコピーもあった。5段で、こういうもの。
「史実揺るがず 集団自決訴訟 識者の視点、大城将保氏(沖縄県史編集委員)」、とあり、タイトルは、「右傾化監視 今後も」、となっている。
大城、<今後の教科書検定の動きや歴史の真実と教訓をねじ曲げようとする危険な右傾化の動きに、油断なく監視を続けていかねばならない>、と結んでいる。
普段、全国紙しか読んでいない私、久しぶりで、こういう文章を読んだ。「記憶と共に生きていく」、という23日付けの「沖縄タイムス」のコピーもあった。その論調、おそらく、「沖タイ」ばかりじゃなく、「琉球新報」も同様であろう。沖縄の思いを、思った。
沖縄では、未だ戦いは続いている。国土の1パーセントにも満たない地に、4分の3もの米軍施設を押しつけられている、という一点を見ても。
66年前の沖縄での戦い、その組織的抵抗は、6月23日に終る。
8月6日の広島、9日の長崎、15日の終戦の日、そして、それに先立つ6月23日。今上天皇が、日本人が決して忘れてはならない日、と述べられている「沖縄慰霊の日」。大城たち沖縄の人、今も戦っている。

大城の後、『GAMA 月桃の花』の製作、音楽を担った海勢頭豊が挨拶し、歌った。
会場の入口にあったこの月桃の花、海勢頭豊が、東京へ来る前、その日の朝、自宅の庭から切ってきたものだそうだ。
月桃の花、沖縄戦のあった4月から盛夏にかけて、咲くそうだ。
沖縄の山野のあちこちに自生する、ショウガ科の多年草だという。この葉で餅を包んで蒸して食べる、重宝な植物だそうだ。

月桃の花。ひとつひとつは、ロウのよう。
私は初めて知ったが、海勢頭豊(うみせど・ゆたか、と読む)、『月桃』の作詞・作曲者。『月桃』と共に歌った『喜瀬武原』がよかった。「キセンバル」と読む。
「喜瀬武原の闘い」、というものがあったそうだ。1974年から76年にかけて。米軍との戦い。1974年から76年といえば、日本復帰後。沖縄は、戦い続けている。
海勢頭豊も70近い。枯れた声で歌う『喜瀬武原』、心の奥底が引きずり出されるような感じがした。
映画が終わった後、大城を囲みクラス会。とはいっても、急遽集まったのは、5人のみ。10時すぎ、映画のスタッフの打ち上げにも出なければいけないんで、と言って大城が帰った後、Mが私にこう言った。
「大城さんは、エライよ。若いころから首尾一貫してるもの。今、沖縄の若い人にも影響を及ぼしているんじゃない」、と。
M、英語のよくできる女の子だったが、今は、日本舞踊のお師匠さん。おそらく、闘争などということとは縁のない人生を送ってきただろう。
そのMにしてこの言葉。大城、いや、沖縄の心、よく解かるよ。