ヤジロベエ。


昨年夏、新宿へ行ったらエイサーをやっていた。威勢のいい踊り。
一昨年の夏も、新宿でエイサーを見た。踊っている人たち、元気いっぱい。
新宿へ出ることも少なくなったので、いずれもタマタマ。偶然その日に行き当たったにすぎない。年に一度、「新宿エイサーまつり」を行なっているそうだ。
纏のようなものがあった。”萬国津梁”と書いてある。世話役のような人に、「あれはどういうものですか」、と聞いた。「”旗頭”というもので、世界の国々が平和でありますように、という意味です」、と教えてくれた。そうか、沖縄らしいな、と思った。

小さな島国・沖縄、周りに平和を乱す国や、乱暴な国があると困る。
カチャーシーを初めて見たのは、40年ぐらい前だった。新宿の厚生年金会館だった、と思う。
どういう催しだったか、憶えていない。おそらく、沖縄がらみの講演会か何か。どのような人が出ていたのかの記憶もないが、竹中労がいたような気もする。その時、途中でいきなりカチャーシーが始まった。それまで座っていた人が、通路に出て踊り始めた。次から次へと、聴衆が通路に出てきて踊りだした。
サンシンも弾かれ、あちこちから指笛が鳴らされる。来ていた人、沖縄の人が多かったのだろう、賑やかで、突然、お祭りが始まったようなものだった。沖縄の熱気、これでもか、というほど感じた。

琉球、15世紀初めからの独立国である。1879年、琉球処分で日本へ組み込まれるまでは。
しかし、琉球弧の小さな島々がらなる小国、力の論理が支配する時代、独立を保つのは大変だ。厳しい。大国・明、清の冊封を受ける国となる。つまり、明、さらに、清から言えば、属国だ。
1609年には、薩摩藩の侵攻を受け、薩摩の付庸国ともなる。”萬国津梁”の思い、清や薩摩といった両隣りの乱暴な国には、通じなかったのだな。
琉球王国、清と薩摩への両属、清と薩摩への朝貢国、として生きのびる道を選ぶ。清と薩摩との均衡をはかって。ヤジロベエのように。
この”ヤジロベエの均衡”という言葉、嶋津与志著『琉球王国衰亡史』(1992年、岩波書店刊)から引いたもの。昨日も記したが、嶋津与志は、大城将保が、小説や戯曲を書く時のペンネーム。
初出は、『琉球新報』に1986年9月から87年6月にかけ連載されたもの。

オビに、「南海の王朝秘史 琉球弧に幕末を読む」、とあり、「ペリーの首里入場こそ日本開国の第一幕だった。大きく転回する時代を生きた新知識人・牧志朝忠、その謎の死が語るもう一つの維新騒動記」、とある。
書の冒頭、道光24年、弘化元年、甲辰の年、という年号が出てくる。道光は、唐年号。弘化は、大和年号。甲辰の年は、島内で通用していた呼び方。いずれも、西暦で言えば、1844年。
琉球王国、年号も使い分け、ヤジロベエの均衡をはかる必要があった。
実は、この大城の著、出た後求めたのだが、そのままになっていた。昨日、何とか探し出した。間に、心臓のバイパス手術をしたばかりなのに、先週末も来ていたクラスの世話役・Oからのハガキが挟まっていた。今日、走り読みをした。
物語は、身分の低い生れながら、とても頭の切れる男、牧志朝忠の悲劇。1844年から、唐年号同治元年、大和年号文久2年、西暦1862年までの。
<これより17年後の明治12年、明治政府の強行処分によって琉球王国は消滅する>、と続く。
実は、この後、もう一章加えられている。少し長いが、大城将保、いや、嶋津与志の記述を引いておく。
<では、琉球はそれほどまでに清国に忠節をつくしていたというのか。ではあるまい。・・・・・唐親国などと持ち上げながら、ねらいは実利以外のなにものでもなかった。薩摩の重圧を牽制せんがために片方の重石として清国の存在が必要だっただけなのだ。ヤジロベエの危うい均衡の上にかろうじて身を立てているのがわが琉球王国の姿ではなかっただろうか。その王国も今はない>、と。

琉球王国は、消滅した。それと共に、ヤジロベエもなくなった。私は、そう思う。
均衡をはかる手段を失ったから、戦っている。特に、戦後のこの66年。1972年までは、アメリカの軍政と戦い、それ以降は、大和の中央政府と。だがしかし、ヤジロベエの均衡をとる片方の重石がない。
空と海に、白、赤、黄の星、三星天洋旗を作り、独立の旗を振っている人もいるが、ごく少数の人たち。沖縄の独立を支持する人は、2割程度にすぎない、という。
だとすれば、大和、ヤマトが、応えなければいけないんじゃないか。
大和には、ヤジロベエを壊した責任がある。