一畳敷。

エジプト情勢、膠着状態に入った。
ムバラクはしたたかだし、アメリカも強くは出られぬ弱みがあるし、なにより、反政権側の思いバラバラの様相。ムスリム同胞団のようなイスラム原理主義組織、4月6日運動のような若者たち、それに、エルバラダイやムーサのような国際社会の動きを知る人たち、一枚岩ではない。チュニジアのように、一気に決着をつけられなかった。モノには、タイミングがある。それを失した。今の体制いずれ倒れるにしろ、長期化するだろう。
ガラッと話を変える。
銀座にINAXのビルがある。各階に自社製品を展示しているらしいが、2階にギャラリーがある。企画展示と、現代美術と、セラミックの3つのギャラリーが。いずれもそう大きくはないスペースだが、そのグレードは、とても高い。入場料などは取らない。さすがINAX、という感じ。
先般、友人のSと飲んだ折り、面白いよ、と聞いたので、何日か前に見に行った。Sはセラミックの作品が面白い、と言っていたのだが、私には、企画展が面白かった。
「幕末の探検家 松浦武四郎と 一畳敷」展。

松浦武四郎、幕末から明治初めにかけての探検家だ。
単なる探検家に留まらず、測量家にして著述家でもある。蝦夷地には、6度にわたる調査旅行をしている。”北海道”という名前の命名者でもある。
蝦夷地探検の先達としては、間宮林蔵が名高い。”間宮海峡”で名を残す間宮林蔵だ。タタール海峡も、韃靼海峡も、その響きはいいが、やはり、間宮海峡と言いたいな、私は。松浦、その間宮よりは、40年ほど年少だ。その間宮林蔵が測量を習った師匠・伊能忠敬もいる。伊能忠敬の場合は、探検家というよりも、測量家と言った方が正確だが。それはともあれ・・・・・
松浦武四郎、伊勢の国に生れ、若い頃から全国を巡っている。16歳で初めて江戸へ行き、17歳の時からは、四国や九州を含め日本全国、あちこちを歩く。
28歳の時、初めて蝦夷地に足を踏み入れる。実は、その2年前の1843年(天保14年)、ロシアが蝦夷地を狙っている、という話を聞くのだ。蝦夷地がどのようなものか、それを知ろうとする。しかし、蝦夷地を支配する松前藩の妨害などもあり、簡単には蝦夷地には入ることができなかった。だから、蝦夷地へ入るまで、長い時間を要した。
だが、この時の第1回目の探検、調査では、箱館(函館)から東海岸に沿って、知床半島まで行っている。
翌1846年(弘化3年)、29歳の時、第2回目の蝦夷地探検、調査旅行に行く。この時には、樺太(カラフト)南部に足を踏み入れている。
1849年(嘉永2年)、32歳の時には、第3回目の蝦夷地調査、探検に出る。この時には、国後、択捉へも調査の足を延ばしている。
その翌年、1850年には、探検、調査旅行でメモに認めたものを基に、調査記録を上梓する。地形、地名、動植物、アイヌの人たちのこと、さらに、松前藩による蝦夷地支配の実態などを記したものだ。
松浦の調査報告記は、江戸末期の知識人の興味を大いに惹いたようだ。吉田松陰はじめ、幕末の志士たちとの交流も多くなる。
アヘン戦争で、イギリスが清を破り、南京条約により香港を掠め取ったのは、1842年だ。1853年年には、ペリーが来航する。翌1854年には、ロシアのプチャーチンが来る。日本の国防問題、なかんずく海防問題の論議、喧しくなる前夜にあたる。

この展覧会、小規模なものであるが、なかなか興味深いものであった。で、会場入口の女性に、「フラッシュは使わずに撮影してもいいでしょうか」、と聞いた。「ダメです」、と言う。「では、入口の外からでは」、と聞くと、「外からなら結構です」、とのこと。それが、これである。
1856年(安政3年)、幕府の役人として、38歳の松浦武四郎は、第4回目の蝦夷地探検、調査旅行へ行く。翌1857年(安政4年)には、第5回目、さらにその翌年、1858年(安政5年)には、第6回目の蝦夷地探検、調査に赴く。
いずれも調査報告書に纏めている。松浦武四郎の6度におよぶ蝦夷地探検、その調査報告書は、151冊に及ぶそうだ。
松浦武四郎が蝦夷地探検へ持って行ったものは、メモ帳に矢立、あとは方位磁石のみ。それのみで測量をしている。ケバ(細い線)描きで、詳細な地図を描いている。すべては、松浦自身の足と、眼と、感覚のみで為したものだ。
松浦武四郎、アイヌの言葉も習得している。彼が作成した多くの蝦夷地の地図、そこには、万に近いアイヌの地名が、カタカナで書きこまれている。松浦が残したもの、地図や報告記ばかりではない。一般の人向けの書も多く上梓し、また、こういうものも作っている。

双六である。「蝦夷土産道中寿五六」と記されている。
箱館から始まり、蝦夷地をグルッと廻る。途中には、クナシリもエトロフもある。上がりは、アイヌの人たちの”鶴の舞い”である。
松浦武四郎、アイヌの人たちに心を通わせている。実は、松浦武四郎の書には、蝦夷地を支配する松前藩やその商人たちの、アイヌの人たちへの酷い仕打ちも書かれているそうだ。支配者と、被支配者の関係だ。松浦武四郎、義侠の人でもある。だから、松前藩、松浦武四郎のことを快く思っていなかったらしい。
支配者と、被支配者の問題、困ったことに、どこにでもある。今でも。別に、中国やクルドを持ちだすまでもなく、今の日本にも。
沖縄の基地問題なども、少し乱暴に言えば、そうであろう。何故、琉球は独立しないのか。琉球処分を行なった、こんな日本は見限って。支配者による琉球処分、いつまでも続いている。オッと、焼酎のお湯割りを飲みながらのブログ打ち、大分酔いが回ってきたようだな。

なお、上の双六の写真、会場内で撮ったものではない。外のこのウィンドウの双六のみを写したものだ。
また、今の北海道の名、松浦武四郎によると先述したが、これは、維新後、明治政府の役人になった松浦、蝦夷地に代わる名前として提案したそうだ。「北加伊道」、と。”加伊”とは、アイヌ民族を指す古い言葉、”カイ”に由来する、という。その”加伊”が、最終的に”海”、となり、”北海道”、となったという。
明治政府の開拓判官という役人になった松浦武四郎だが、その内、辞表を叩きつける。政権は変われ、維新後も、内地の人のアイヌの人への扱いが変わらなかったからだ、という。で、引退、晩年は、骨董を愛でる趣味の世界に生きる。

自宅の庭先に、「一畳敷」の書斎を作る。この写真、ポスターの写真を拡大したものだ。念のため。
「草の舎」と名付ける。
畳の周りに、幅15センチばかりの、畳寄せのようなものはある。それにしても、一畳敷きとは。
現存する最古の茶室と言われる、利休の作った「待庵」でも、その茶席は、二畳である。昨年8月、終戦記念日がらみで何日か旧日本軍の軍人のことを記した。「立派な行い」として、陸軍大将・今村均のことも書いた憶えがある。その今村均が、昭和29年末、巣鴨を出た後、自己を幽閉し、謹慎蟄居のために庭先に造った「謹慎伏屋」が、三畳である。
しかし、松浦武四郎は、わずか一畳の書斎を造った。
だがしかし、趣味人の松浦武四郎、この時も、只者ではない。日本全国から古材を集めたんだ。例えば、後醍醐天皇陵の鳥居とか、各社寺の古材とかを、”木片勧進”として、90数点もの古材を。その集まった古材を組んで、「一畳敷」を造った。ヘソ曲がりでもあり、只者でもない。
もちろん、さまざまな書物を著わしている松浦武四郎、『木片勧進』という書も出している。その経緯を記した。
松浦武四郎、義侠心に富んだ人であり、変わった人でもある。とても面白い展示であった。