夷酋列像、夷人を勧懲するという狙いがあったんだ。

江戸時代後期になろうか寛政元年(1789年)5月、クナシリ・メナシの乱が勃発した。
松前藩の御用商人の過酷な行いに130人のアイヌが決起、和人70人余を殺害した。松前藩は精鋭260人の鎮圧隊を送りこみ制圧、捕まえたアイヌ37人を処刑した。今に伝わるクナシリ・メナシの乱、クナシリ・メナシの戦いである。
しかし、アイヌの人たちの和人に対する反乱にもかかわらず、それを収めるために和人・松前藩に協力したアイヌの首長たちがいた。12人のアイヌの首長が松前藩に協力した。松前藩も懐柔工作はしたであろう。
このようなこと、18世紀末の蝦夷地ばかりじゃなく世界中あちこちで行われている。19世紀から20世紀初めにかけてのイギリスなんて、得意中の得意であった。18世紀末の松前藩もそう。
時の松前藩主・松前道広、絵描きでもある家老の蠣崎波響に、反乱鎮圧に協力したアイヌの首長12人の姿を描くように命じる。蠣崎波響、ほぼ1年をかけ松前藩に協力した12人のアイヌの首長の姿を描く。
その原画、どういうワケか日本にはない。フランスのブザンソンにある。ブザンソン美術考古博物館に。昨年里帰りし、北海道博物館、佐倉の歴博、そして民博へと巡回している。

桜にはあと数日の万博記念公園、民博への道。

さすが民博(国立民族学博物館)。日本語に加え、アラビア語、中国語、英語、フランス語、ロシア語、スペイン語、そしてハングルで記されている。

正面の方は、民博の本館。折々の企画展は、左の特別展示館で。

特別展示館入口。
蝦夷錦、華やかな衣装を纏ったアイヌ首長の絵姿、見たかったんだ。

松前藩へ協力したアイヌ首長12人。

まず目につくのは、中央の二人。

夷酋列像の12人のアイヌ首長、右端から順番にその面貌を写す。





彼らの面貌、眉は一文字に繋がる。目は、黒目は小さく白目が大きい極端な三白眼。そして顔をおおう髭。
ツキノエも。

イコトイも。




この人物には、髭が生えていない。女性なんだ。
ツキノエの妻であるチキリアシカイ。

蝦夷錦や、

ロシアの外套。
あでやか、派手やかに描かれている。
何故か。
夷酋列像、夷人を勧懲するという狙いがあったんだ。
松前道広、蠣崎波響に夷酋列像を描かせた狙い、そこにあったに違いない。

少し遅い昼飯、夷酋列像展特別メニューのオハウセットを食った。

このようなもの。
8年近く前、白老のポロトコタン、アイヌ民族博物館で同じものを食ったことを思いだした。鮭と野菜のスープ、いずれも熱くないのが難点。人肌の燗酒でないのだから、ぬるいのはいまひとつ。スープはやはり熱いのがよい。

それはともあれ、「月刊みんぱく」2月号を求める。
その誌上及びパンフの画像から幾つか。夷酋列像には、幾つかの粉本、模写がある。

民博所蔵の「夷酋列像図」に描かれたイコトイ。

蝦夷図像。

蝦夷漫画。

「月刊みんぱく」2月号に”「夷酋列像」を読み解く”という特集がある。
アイヌ文化研究の第一人者であるという民博の名誉教授・大塚和義が、弟子の研究者と語っている。その一部を複写する。
松前藩の和人と「化外の民」であると考えていたアイヌの人たちとの関係。

アイヌは野蛮人である、と思われていたのか。

クナシリ・メナシの乱、松前藩の帝国主義的圧制に対する反乱である。

「夷酋列像」、その副作用として生まれたとも言える。
とても面白い。5月10日まで。


熊本はじめ九州での地震、頻発している。
今日郵便局へ行き、振替を送った。私にできる唯一、ささやかなこと。