オホーツクふらふら行(3) 知床博物館。

オホーツク沿岸を流氷を見ながら北上する前に斜里へ寄ったのは、知床博物館を訪れるためである。
オホーツクが好きで何度か訪れている。厳冬期のオホーツクも3度目となる。何冊か図録が出てきた。網走の北方民族博物館の図録への書きこみによると、前回訪れたのは2005年3月4日から6日。恐らく土日に1日加えた2泊3日というもの。15年前となる。女満別へ入り、女満別から帰っている。
1日は網走の博物館を周り、あと1日は砕氷船・オーロラに乗った後、斜里へ行き知床博物館へ行っている。駅から雪の中を歩いて行った覚えがある。
ホテルで道順を訊き、のろのろと今回も歩きだした。前回訪れた時の印象で、博物館までの雪景色を見ながらと思っていた。少し行くと中年の女性と行きあった。「博物館へはこの道でいいでしょうか?」、と訊いた。「そうです。が、道は滑ります。そう離れているわけではありませんが、ハイヤーで行った方がいいです。今、ハイヤーを呼んであげます」、と言い携帯で車を呼んでくれた。タクシーはすぐに来た。その中年女性、運転手と暫らく話していた。知り合いらしい。親切な人であった。
すぐに博物館に着いたが、それが正解であった。15年前とは私自身が違う。杖の代わりにスキーのストックをついてふらふらと歩いている。
この後オホーツクでは7、8分以上歩く場合にはタクシー(どういうわけか、オホーツクの方では、タクシーと言わずハイヤーと言っている。流しの車などがいないからかもしれない)を呼ぶことにした。初乗り610円と値も安い。


ところで、司馬遼太郎はオホーツクへ2度訪れている。
最初は1991年(平成3年)秋に網走へ。北海道の考古学者・野村崇さんの案内で。
この野村さんへの礼状の中で、司馬遼太郎は「冬こそオホーツクなのに・・・」、と記し、翌1992年(平成4年)1月、2度目のオホーツク行を実行した。この時には稚内へ飛び、稚内から浜頓別、枝幸、紋別、網走、そして知床、斜里へオホーツク沿岸を南下している。
その模様が「週刊朝日」1992年4月3日号から12月18日号まで連載され、それ以降、単行本、文庫本と版を重ねている。『街道をゆく38 オホーツク街道』として。
『街道をゆく』、もとより紀行書である。が、この38『オホーツク街道』は、歴史、考古学、文化人類学といった趣きが濃厚である。大阪外大の蒙古語学科に入っている司馬遼太郎、アイヌやニブヒ(ギリヤーク)、ウィルタ(オロッコ)という名称ばかりでなく、オホーツク人やモヨロ人といった北のオホーツク海を渡ってきた謎の民族たちの存在や遺跡に気合が入っている。
さすが司馬遼。唸るばかり。


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斜里町立知床博物館。
<この町には「知床博物館」という町立の規模をこえた博物館があって、町の人の心のささえになっている。その博物館が発行した・・・>、と司馬遼は『オホーツク街道』に記している。が、司馬遼が博物館へ来たのかどうかは記されていない。博物館発行の小冊子は読み、そこから大正6、7年ごろの斜里の話を面白がって書いているが。
<斜里の町役場にはあらかじめ連絡しておいた。このため、町長さんの午来昌氏などが待っていてくださった。知床博物館の金盛典夫館長、さらには前記の「それはね、飛びましたよ」の小泉昇氏、さらには町の文化財調査委員の金喜多一氏。「金(こん)です」と、名刺を出されたときは、うれしかった。私は日本の金(こん)という姓にふるくからかんしんをもっていたが、・・・>、と司馬遼は記し、ここから「前九年の役」にふれ、<この顛末を書いた実録が『陸奥話記』で、十一世紀ごろの成立である。そこに、・・・>、と続いていく。『陸奥話記』なんて書、初めて知った。
それはともかく、司馬遼が訪ねてくると知った町長や博物館の館長やその他のお歴々、嬉しかったであろう。緊張して待ってたであろうな。
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こっちから博物館へ入ってきた。
司馬遼じゃなく私です。
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このようなことが記されている。
若い女性がひとり窓口にいる。
入館料は300円であった。
音声ガイドがあった。無料だという。東京の博物館なら550円取るよ。
入館料300円にしろ、無料の音声ガイドにしろ、これが司馬遼の記す<町の人の心のささえ>、斜里町の矜持というものか、と考える。
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上を見上げるとワシが飛んでいる。
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博物館のお決まり、縄文時代から。
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続縄文時代、そしてオホーツク文化。
図録によれば、オホーツク文化は擦文文化と重なる6~13世紀ごろ。
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擦文文化は、古墳時代にあたる6世紀ごろ。
トビニタイ文化は、<オホーツク文化と擦文文化が接触を繰り返し、融合してできた新しい文化と考えられている>、と図録にある。
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オホーツク人。
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アイヌ。神々の大地。
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明治21年(1888年)、アメリカのスミソニアン協会の学芸員が撮った斜里アイヌと家屋。
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カパラミブ。美しい衣装という意だそうだ。
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正装したアイヌ男性。
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斜里町の誕生まで。
この男は、松浦武四郎。1845年(弘化2年)初めて蝦夷地へ、斜里に入り、翌年、全島一周。1858年(安政5年)までに4度蝦夷地を探検、調査する。松前藩のアイヌに対する過酷な行いを訴えてもいたそうだ。明治2年、蝦夷地を北海道と改める。
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漁業の歴史。
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林業100年。
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蹄鉄標本。
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斜里駅。
北海道にとって、鉄道の持つ意味はとても大きい。
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2階へ上がる。
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クジラじゃなかったか。
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流氷に乗ってくる。
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ウミガラスやカモメ。さまざまな種がある。
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猛禽類。
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オジロワシとオオワシ。
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ここにも。
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知床のハンターだ。
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クマタカに襲われたクロテン。
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シマフクロウ。大きい。
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シマフクロウ、こういう状態だそうだ。
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収蔵庫の一部が見える。
時々座り、博物館には1時間以上いた。しかし、入ってくる人は誰もいなかった。私ひとり。
窓口の女性にタクシーを呼んでもらった。
15年前には行かなかった北のアルプ美術館へいくつもりである。車はすぐに来た。
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来る時には博物館の玄関まで入ってきた。
で、表の道から博物館へ入るところで少し停めてもらい、降りて入口の標識を撮った。