北泰紀行(24) 落穂拾い。

焼酎のお湯割りを飲みながらのブログ書き、書きもらしたことがある。また、その後のことも幾つか。落穂を拾う。
真っ白い異形のお寺、”タイのガウディー”が造るワット・ロン・クンのハガキの裏に、”White Fish is Happy”、という私の手書きの文字があった。おそらく、お寺の目につくところに書かれていたものを写したものだろう。
”白い魚”にどういう意味があるのかは、解からない。しかし、タイのガウディーにとっては、白い色は、特別な色、ハッピーであり、ホーリーでもあるのだろう。
「赤シャツと黄シャツ」のところで、タクシンが、実は、チェンマイの出身だ、ということも忘れてしまった。客家の出、ということは書いたのだが。
それにしてもタクシン、今どこに居るのか解からない。タイを追われた後、イギリスに亡命し、そこも追われた後、フィリピンやアジアの国に亡命を打診したものの、いずれも断られた。その後暫くはドバイにいた。タクシン派の面々、ドバイ詣でをしていた、という。その後は解からない。旧ユーゴのモンテネグロにいる、という噂もあるが、杳として。
しかし、タクシンの影響力、今なお強い。赤シャツ派の皆さんのタクシン待望論は、根強い。Tの話によれば、赤シャツと黄シャツ、タクシン派と反タクシン派、一般国民ばかりでなく、政治家はもちろん、軍部も半々の状態だそうだ。
タイは、立憲君主制の国。国王の政治に関与する割合いも、案外多い。赤シャツ派であろうと黄シャツ派であろうと、国王に対する崇敬の念は、高い。それを、競い合ってもいる。だから、国内の対立がある程度になると、国王が両者の親玉を呼びだし、”いいかげんにしろ、お前たち”、と一喝する。そういう光景、以前ニュースで何度もあった。
プーミポン国王の著書『奇跡の名犬物語』を紹介した。「イヌ、ネコ・・・」のところで。
この書、日本では、児童書として刊行されている。ハードカヴァーではあるが、60数ページの短いもの。字も大きく、ルビもふってある。しかし、タイではおそらく、一般書として出されたものだろう。
<野良犬だってチャンスさえあれば、素晴らしい飼い犬になれる素質をもっていることを物語っています>、と世界一賢いロイヤル・ドッグ、トーンデーンのことを記されている。
それと共に、<親切な飼い主にめぐりあったほとんどの野良犬は、身のほどをよくわきまえ、恩を感じて、飼い主に対してとくに忠実にふるまいます>、とか、<トーンデーンは、私にとても忠誠を尽くします。・・・・・私のそばにいるとき、いつも近くでひれ伏す姿勢をとり、・・・・・>、とか、<トーンデーンは、しっかりとした礼儀作法も身につけています。ほかのものに対してつねに尊敬の気持ちを抱き、礼儀を欠くことをしたことは一度もありません>、とも書かれている。
国王自ら、国民に対し、礼儀作法や目上の人に対する尊敬の念を持つように、と説かれている書なんだ。立憲君主国の国王ならではの言葉である、と言えよう。
そういえば、国王の写真をずいぶん見たな。あちこちで見た。訪れたところ、どこにもあったような気がする。
これほどひとりの人の写真を見たのは、10年近く前に行ったイラン以来だった。町中、ホメイニの写真を多く見かけた。国道にも、スーパーマーケットにも、映画館にも、町中の食堂にも、至るところにホメイニの写真が掲げられていた。すでにホメイニは死んで、たしか、ラフサンジャニが大統領だった頃だと記憶するが、大統領より、当時の最高宗教指導者より、ホメイニ師だった。
でも、そのホメイニ師よりも、プーミポン国王の写真は多かった。

梅棹忠夫の『東南アジア紀行』(中公文庫、1979年刊)を読んだ。
梅棹忠夫については、半年ほど前、梅棹が死んだ後に、日本が世界に誇れる唯一の国立博物館、「国立民族学博物館」の大恩人だ、と書いた憶えがある。
それはともかく、この書、私が読んだのは文庫本だが、元版は1964年に出されたもの。1957年から58年にかけて、そして1961年から62年にかけての、大阪市立大学から派遣された学術調査隊の記録である。タイ、カンボジア、ベトナム、ラオスへの調査旅行の記録。50年前のチェンマイの様子も出てくる。
梅棹忠夫、チェンマイについて、こう書いている。
<落ちついて、静まりかえった町である。いかにも、旧都あるいは古都という感じである。日本でいえば、ちょっと奈良に似ている。大きさもそれくらいではないだろうか。やたらに寺が多いところも同じである>、と。
<赤い日傘の女が、つっかけ下駄をカラコロとひびかせて買いものにゆく。・・・・・三輪車の行商人が、ゆっくりとこいでくる>、とも。
<戦争中はこの町に、3万の日本軍が駐屯していたという。それがいまは、日本人はたった3人になってしまった>、という記述もある。
寺が多いところは同じだが、50年前のチェンマイ、こうだったんだ。勉強した。

そういえば、今月半ば、Tが戻ってきた。で、何日か前、銀座の中華屋でTとSと私の3人集まり、Sの作品のチェンマイでの展覧会の相談をした。作戦会議だ。今、Sは、作品写真を選んでいる。古い作品は、デジカメではない故、紙焼き写真をスキャンしなければならないが。
私は、連絡係となった。あのシックな、それでいて、やり手のギャラリー・カムダラーのオーナーにいかに売り込むか、責任は重い。
だんだん気合いが入ってきたS、「今はパリやニューヨークじゃなく、中国なんだよな、上海の美術市場凄いらしい」、なんてことを言っていた。
チェンマイでさえ、どうなるか解からないのに、上海だ。紹興酒を飲みすぎたこともあるが、その気概やよしだ。
Toさんからお土産にもらった塩浸けの魚、今でも食べている。
焼いて冷蔵庫に入れてあるんだ。時折りそれを出して、爪の先ほどを食べている。塩の固まりのようだから、それで十分。小さな魚だが、あと3〜4カ月は食べることができるだろう。
なお、上に載せた2枚の写真、Tの部屋にあったものを撮ったものだ。
豆のデカイようなものは、1メートルくらいあった。下の写真の右側のものは、その実だそうだ。
私にとっては、王侯のような待遇を受けたチェンマイや北部タイでの「北泰紀行」、これにて終わりとする。
昨年年初の「日本遺産補遺」と同じく、半月ばかりの連載にしようか、と思っていたが、ついあれやこれや、長くなってしまった。