日本を考える。

「自分の部屋ぐらい掃除をしてくれ」、と言われているのだが、私は、掃除とか整理整頓といったことが、大の苦手。あまり好きじゃない。
で、夕刻、散歩に行った。
暮れなずむ西の空、屋並みの上は落陽に染まり、その上には、鉛色の重苦しい雲がかかっていた。入相時だ。

今日の朝日新聞の社説、「斜陽の年」として、<敗戦は日本をいったんゼロにリセットした。それから65年後の今年、日本を覆うのは、やり場のない斜陽の感覚である>、と書いている。
1945年に生れた赤ちゃんが、19歳で東京五輪をやり、25歳で大阪万博をやり、30代で一億総中流を自任し、40代半ばでバブルが崩壊し、今に繋がっている、とも記している。たしかに、そうである。戦争に負けた日本、駆け抜けた。
”ジャパン アズ ナンバーワン”の時代は、はるか昔に通り過ぎ、今、晩期、老年期に入っている。斜陽であり、黄昏である。

落日後のこういう鉛色の雲を見ると、斜陽、黄昏ばかりでなく、凋落、没落、衰退、なんて言葉も思い出す。世界には、アジアの国を初め、青年期の国が多く出てきている。年寄りになったんだよ、日本は。それを認めなきゃ。
アンブローズ・ビアスは、彼の『悪魔の辞典』で、<老齢とは、積極的にやってみようという気がなくなった悪事をあしざまにいうことによって、まだ捨てきれぬ身についた悪習を帳消しにしようとする人生の一齣>、と記している。
まだ、悪あがきしている年寄りを皮肉った、ビアスらしい言葉だ。
年末ということもあり、テレビなどでは、日本の行く末だとか、日本の再生にはどうすれば、なんてことをやっている。民主党政権がどうこうとか、菅直人がどうとか、と言ったことを。だが、それこそ、ビアスが皮肉っていること、そのものだ。私は、そんなことはどうでもいい。
あり得ないことだが、もし私が日本国の総理なら、こうする。
それは、日本全体をどうこうとか、日本人すべての再生なんてことは、放棄する。多くの国民は、何とかやっている。何とかやれない人がいる。おそらく、国民全体の1割に満たない人たちだと思う。仕事のない若い人たちも含め、それらの人たちを受け入れる方策を、それのみを実施する政策を取る。
おそらく、9割ぐらいの何とかやっている人たちには、贅沢を言うな、とする。日本は、斜陽の国、黄昏の国になったのだから、それを解かってくれ、と言って。解からない人には、外国へ行け、と言う。日本は、駆け抜けた国なんだ。特殊な国なんだ。それを解かるべきだ、とする。世界の歴史も考えてみてくれ、と。
斜陽、黄昏の時期を迎えてはいるが、日本は、それなりに素晴らしい国だよ。おそらく、1割弱の人たちを救えれば。そういう国になれば、日本は、成熟した国として、より素晴らしい国になる。

でも、こういう絵を見ると、逢魔が時、という言葉も思い浮かぶが。