和字。

東アジアの国にとって、中国って国は何となく重苦しいよね。鬱陶しいって言ってもいいかもしれない。
いや、尖閣がどうこう、といったことばかりじゃなく昔から。日本とか、朝鮮とか、琉球とかっていったところにとっては。
しかし、それも仕様がないといえば、仕様がないんだ。中国だけが文明国だったんだから。
孔子や孟子が教えを説いていた時代は、日本では縄文時代から弥生時代へ切り替わる頃。あのいたのいないのの邪馬台国の卑弥呼だって、その後、紀元後2〜3世紀のことである。日本には文字などなかった。
漢字の”漢”は、紀元前後の王朝である。その漢字が日本へ伝わってきたのは、3世紀末のことのようである。
漢字が日本という国に浸透していく。でも、それはあくまでも中国の文字、漢字であり、唐様であった。日本の文字・書、中国の文字・書をそのまま真似して書いていた。
その中国からもたらされた書法を、日本の文化の中で独自に発展させた日本風の書法が「和様の書」である。そのターニングポイントは、平安時代の三蹟。小野道風、藤原佐理、藤原行成の3人の書からであるそうだ。
10世紀に至り、初めて日本の書が確立された、ということだ。
いわば、”漢字”から”和字”となった、と言えるようだ。
なお、”和字”という言葉、今、何となく私が造った言葉なので、世間に通用するか否かは知らない。が、まあ、そういうような感じであり、漢字。

ひと月ほど前の東博正面入口の前。ここの定番、バイクやチャリンコが停まっている。

東博構内の立看。「和様の書」。

平成館の壁面。
企画展タイトルの横にあるのは、国宝、本阿弥光悦作≪舟橋蒔絵硯箱≫。
<金粉を密に蒔いた金地の外側には、鉛板の橋を渡し、『後撰和歌集』に収められた源等の歌「東路のさのの(舟橋)かけてのみ見わたるを知る人ぞなき」を銀文字で>、と東博の説明にある。「和様の書」、その後には、紙の上ばかりじゃなく広がった。

三蹟のひとり・小野道風の書。
「円珍贈法印大和尚位並智証大師諡号勅書」。平安時代、延長5年(927年)の書。
小野道風の書、漢字・唐樣の書から、日本風の書・和様の書、いわば和字へと導いた転換点の書。日本という国、辺境の島国から、「我らここにあり」、とその存在を声高に叫んだものでもあろう。

平家納経(寿量品第十六)。長寛2年(1164年)の作。
和様の書、文字ばかりじゃなく、その表現の場をも巻きこみ、濃密な美術作品へと転化していく。

天下人の書もある。信長、秀吉、家康。
信長の書が面白い。
天正5年(1577年)10月2日の信長の書。細川忠興の戦功を賞したもの。信長らしい尊大で簡潔な文章だ。
それはそうと、日本も発展してきた。和様の書・和字を用いて。