ろっ骨レコード(続き)。

社会主義国、共産党の一党独裁国家である。共産党に問題があるのではない。共産党であろうと、共和党であろうと、それは信条の問題、何党であろうと個人の自由。
しかし、一党独裁は、とんでもない体制。反対意見を認めない。許さない。弾圧する。恐怖政治となる。
ソ連の場合、1924年のレーニンの死後、1953年までのほぼ30年間、スターリンの時代が続いた。
恐怖政治であり、スターリンへの個人崇拝が強制された時代である。反対する人は、どうなったか。多くの人が粛清された。殺されることは免れた人も、シベリアの強制収容所へ送られた。今、北朝鮮の最高権力者も、それをお手本にしている。そっくりそのまま。
スターリンの死後、1953年から1964年までの11年間、ソ連の最高指導者(共産党書記長)となったのは、フルシチョフ。その風貌、言動など、なかなか愛すべきところのあった男であったが、もちろん、筋金入りのコミュニスト。
そのフルシチョフ、何と、1956年にスターリン批判を行う。国連総会の議場で、脱いだ靴で机をドンドン叩く、なんてお行儀の悪いこともしていたが、東西融和策を取る。国内的にも、雪解け現象が起きる。完全ではないが。
ろっ骨レコードが作られていた、1950年代のソ連、こういう時代だ。
しかし、1964年、フルシチョフは失脚し、その後をブレジネフが襲う。たしか、”北方の熊”といわれていた。いかつい顔貌もそうであったが、ソ連の政治を揺り戻す。1982年まで。だから、窮屈な社会主義国、ソビエト連邦は、途中やや緩やかになった時期もあったが、80年代初めまではそう、と言っていいのかもしれない。
その後、ブレジネフの亜流といっていい人の時代が数年あり、1985年、あのゴルバチョフが書記長となる。ゴルビーという愛称で呼ばれ、ペレストロイカとグラスノスチを推し進めたゴルバチョフの時代になり、初めてソ連は、西側に開けた国になった。
だが、この男・ゴルバチョフ、ロシア国内では、すこぶる評判が悪い。どうも、あれほどの大国、ソ連をブッ壊した男だというところに、その原因があるらしい。
駆け足のソ連政治史の概略はこのくらいにして、”ろっ骨レコード”の続きに移る。
坂田明とNHKのスタッフ、ロシアのラジオ局に頼み、呼びかける。ろっ骨レコードを持っている人、ろっ骨レコードに関する情報を持っている人はご連絡を、といって。幾らかの反応が寄せられる。坂田明、その人たちに会いに行く。

たとえばこの人。若い頃、エンジン工場で働いていた人。どうやって、ろっ骨レコードを買ったかを教えてくれる。
売り手に、こう言うそうだ。売人は、赤の広場にいたそうだ。売人は、袖の下にろっ骨レコードを隠し持っている。それを服の中から中へ受け渡した、という。

仲のいい友だちを呼んで、隠れて聴いていたそうだ。

そして、こう言う。

若い頃、エンジン工場で働き、隠れてプレスリーを聴いていたオジイちゃん、こういう洒落た言葉を語る。

当時の新聞、”スチリャーガ”とある。”脱落者”となっている。この言葉、当時のソ連では広く使われていた言葉のようだ。
五木寛之のデビュー作、『さらばモスクワ愚連隊』の中にも、この”スチリャーガ”という言葉が何度か出てくる。”不良”とか、”ろくでなし”という意味合いで。
ジャズがらみの五木寛之については、その内に触れようと思っているが。

また別のこの人は、こう言っている。
こういう時代だったんだ。1950年代のソ連。

この人は、ロシアでは知られたジャズ評論家だそうだ。ジャズを研究している。
この人、こうも言っている。
ひとつの音楽が、社会から抹殺されてしまうことがあった。当時は、ジャズミュージシャンは認められていなかった。ソ連のイデオロギーの敵だった。ジャズは、不良の音楽だと言われていた。私も70年代まで不良の音楽をやっていた。体制と闘っているような気持ちだった。だが、ジャズは、私にとって”意味”だった、と。

このジャズ評論家にして研究者、ろっ骨レコードも持っている。これだ。

それをかけると、この曲が流れた。
1950年代のソ連、ジャズといえば、アメリカのロックであり、ポピュラーソングであった。スウィングでもなければ、ビバップでもない。その前段階。禁じられているアメリカの音楽が、ジャズ。そういう時代だったんだ。
このことは、日本の1950年代初めの状況と似ている。日本では、禁じられてはいなかったが。その状況が。日本文学の研究者であり、ジャズ学の大家でもあるマイク・モラスキーの書を読むと、そう思う。モラスキーについては、「ジャズ喫茶論」でも触れたが、この人については、今一度触れる必要があるかもしれない。

ろっ骨レコードを作る、カッティングマシーンもあった。

その1943年製の機械には、こう書かれている。

第二次世界大戦中、スターリンの演説や、こういうことのために使われた機械だという。
それを、ろっ骨レコードを作るための機械として使ったそうだ。

部屋の壁には、こういうポスターというか紙が貼ってあった。
ロシア文字や、こういう色づかいを見ると、単純なものではあるが、時代を遡るロシアアヴァンギャルドのポスターを、思い出さないでもない。