外地。

<昭和27年に上京してはじめて出会ったオフ・ビートの夷狄の音楽は、私の物の見方、感じ方を変えるほどの大きな影響をあたえてくれたらしいのである。そこですなわちジャズなのだが、当時20歳前後の学生だった私は、もちろんジャズだけに出会ったわけではない。・・・・・や、・・・・・や、・・・・・とも出会った。だが、今にして思えば、やはりジャズである。・・・・・正しくはジャズというより、ジャズ的なものといったほうがいいだろう>。
のっけから、長い引用となったが、『深夜の自画像』(文春文庫、1975年刊)の中で、五木寛之、こう書いている。たしかに、五木、ジャズについての関心は、強い。上の文自体、主テーマは、ジャズについての文章ではなく、唐十郎について書いているものだから。「同時代との出会い」というものの中で。
ついでだ、この後のことも引いておく。唐十郎の芝居と出会ったことにつき、<私が若い頃に出会ったジャズ的な音楽が何を自分にもたらしたかを、今にして気付くように、だ>、と記している。
ことほど左様に、五木寛之の初期の小説には、ジャズがらみの作品が多い。
デビュー作と言っていい『さらばモスクワ愚連隊』(1週間ほど前の「ろっ骨レコード」の時、少し触れたが、”スチリャーガめ”と呼ばれるミーシャという、トランペット吹きの少年が出てくる物語)、『GIブルース』、『青年は荒野をめざす』、『海を見ていたジョニー』(2〜3日前の「レフト・アローン」で触れた。天才ボクサーからジャズマンに転向したピアニスト・ジョニーが出てくる話)、『夜明けのラグタイム』、すべてジャズがらみの小説だ。
五木寛之、1965年にロシア(もちろん、ソ連)に旅している。1965年といえば、フルシチョフが失脚し、あの”北方の熊”・ブレジネフの時代に入っていた頃だが、まだ、”雪解け”の残滓は残っていたのだろう。歩き廻っている。
五木、レニングラードから友人に宛てて、このようなハガキを出している。<・・・・・クレムリンも、エルミタージュも何もみない。街を潜行して、人間たちの生活だけを見て廻っている。・・・・・「さらば、モスクワ愚連隊」という本がかけそうだ>、とハガキに書いている。
このソ連への旅が、五木寛之を小説家に、大流行作家にした。『さらばモスクワ愚連隊』を発表するのは、その翌年。
なぜ、五木寛之は、ロシア(ソ連)へ行ったのか。結婚したばかりのカミさんを置いて。授業料を納めず、除籍になったそうだが、早稲田のロ文であったからか。それも、もちろん、あろう。だが、少なくともソ連へジャズを聴きに行ったわけではなかろう。最大の理由は、五木が、”外地引揚者”であるからに違いない。
五木寛之、1932年(昭和7年)の生まれである。生れてすぐ、朝鮮へ渡り、1948年(昭和23年)に日本へ引揚げている。日本の植民地であり、敗戦後は、ソ連が進駐してきた朝鮮の平壌(ピョンヤン)で、中学まで過ごしている。この引揚げ体験が大きい。いや、引揚げ体験ばかりでなく、五木の年なら、あらかたのことは解かる。
植民地での、いや、ついウッカリ植民地と書いてしまったが、朝鮮半島は、日本が併合していた。より始末が悪い。つまり、その地の支配者である日本人と、支配される側の朝鮮人とのこと。さらに、敗戦後進駐してきたソ連軍と、敗戦国民、日本人とのこと。さまざま、入り混じる。
五木寛之が、その後、度々口にしている”デラシネ(根なし草)”という言葉以上の意味を持つ。
単なる贖罪意識ではない。そう言えば、五木寛之、野坂昭如との対談で、なぜ子供を持たないのか、多量に服用して車を運転すれば確実に死ぬ、という薬を持っている、と話している。五木寛之のジャズがらみの作品、その舞台が、どうしてロシアや北欧なのか。日本が舞台であっても、出てくる人たち、どうしてこうも哀しいのか、その大本は、外地にある。
明日、続けよう。