外地(続き)。

自ら、とても解かり易く、”外地”と”内地”の問題について、五木寛之が語っている文章がある。
<こうして私たち植民地から追放されて帰ってきた人間には、いくつかの共通した傾向が目立つように思う。一つは外国、および民族・人種の関係に対する強い関心。そしてもう一つは内地、または日本的なるものに対する反発と、強い関心。また、地理的放浪性とインターナショナルな傾向。さらにつけ加えるならば、故郷を持たぬ事からくるデラシネ(祖国喪失)意識>、と。
さらに、<これらのすべてがおのれの体験としての植民地と、強国に対する警戒意識として根強く私たちの中に居すわっていると言えるだろう>、と続く。
これは、昨日触れた『深夜の自画像』に収められている、「長い旅への始まり 外地引揚者の発想」の中に出てくる言葉であるが、ストレート過ぎる、とも感じる心情吐露である。五木寛之らしくはあるが、あまりにも、正直。他の個所には、こうも書かれているのだから。
<その時私をおそったのは、敗戦後の満洲・朝鮮の赤土の山あいを、のろのろと移動して行く日本人引揚げ難民の隊列のイメージであった>、とか、<植民地における支配民族としての日本人の中にも、二つの階級が存在していたことを考えなければ外地体験を語ることは無意味だろう>、といった文言がある。五木寛之の心の中には、ただひとつことでは、収まらない、さまざまな側面がないまぜになっている。
五木寛之、被支配者・弱者に対する思いは、強い。支配者・強者に対する、いかがわしさを身に纏っている。上に引いた五木の文に”強国に対する警戒意識”、という言葉がある。当時の強国とは、アメリカとソ連のことであろう。では、なぜソ連・ロシアなのか。五木の関心は、北方なのか。
おそらく、米ソを較べ、ソ連が文化的弱者である、という思いがあったのであろう。何をもって文化的弱者というかも問題ではあるが。ソ連崩壊後、ロシアになってからしか知らないが、ロシアは、文化的弱者ではない。それどころか、大変な文化的強者とも言える。特に、伝統文化の面においては。あの酷いソ連時代があったのに、よくぞ、と思えるほど。
しかし、ことジャズがらみでは、明らかに、弱者である。先般の”ろっ骨レコード”でも解かるように。文化の問題以前に、政治の問題、体制の問題だ。ソ連という体制自体が、文化的弱者と言うのが、正しいのかもしれない。
弱者ついでに、思い出したことがある。
36〜7年前、五木寛之を一度だけ見たことがある。一ツ橋講堂だったか、共立講堂だったかで講演会があった。週刊誌や他の媒体の前線でモノを書いている人たちを支援する、というもの。彼らへの対価、つまり、原稿料、驚くほど安い、しかも、永年変わっていない、理不尽である、支援しよう、というものだった。
その頃小さな出版社をやっていた友だちに誘われ、聴きに行った。6〜7人の人が話したような気がする。誰が話したのか、憶えているのは、二人のみ。そのひとりは、五木寛之であった。その当時の五木寛之、大売れっ子作家である。その五木が、同じ文筆の徒ではあるが、自分の何十分の一、いや、100分の1にも満たないかもしれない、底辺のライターへの連帯を示し、支援するために参加していた。五木らしい行動だった。
この時のことで憶えているあとひとりは、金子光晴である。もう80近かった。たしか、若い女性が金子光晴の手をとって歩いていた。いかにも金子光晴らしいな、と思った。だが、それよりも、ナマの金子光晴を見ることができ、なんだか嬉しかった憶えがある。金子光晴、その2〜3年後、死んだ。
オイ、お前、五木寛之のジャズがらみの話だろう。それが、昨日今日、ジャズの話は、出てこないじゃないか。横道に入ってばっかりで。そうお思いであろう。
私も、そう思っている。解かっている。
だがしかし、外地とか、弱者とかを考えると、私の頭、どうも真っすぐには進まない。
また、明日だ。
いや、明日は、東博へ行く。だから、続きは、その後とする。