リュウ。

「死刑台のエレベーター」を久しぶりで観て、マイルス、小沢昭一、石原慎太郎の『ファンキー・ジャンプ』、と尻取りをしてきたようなジャズがらみの話、暫く間が開いたが、今暫く続ける。
石原慎太郎が、『太陽の季節』で芥川賞を取り、衝撃的なデビューを果たすのは1955年。石原慎太郎、23歳の時。その20年後、世間に同様な衝撃を与え、センセーショナルな波紋を広げた、村上龍が登場した。『限りなく透明に近いブルー』が芥川賞を取った。村上龍、24歳。
一見、無軌道な若者の生態を描いたものなので、世間は、慎太郎の登場と同様な現象と受けとった。このふたつの作品、まったく異なるものなのだが。
村上龍の『限りなく透明に近いブルー』、ドラッグとセックスの日常を送る若者の話。村上龍自身が、他の場で語っているが、生地、佐世保から東京へ出てきて、福生へ住んだ頃の実体験に基づいた作品。主人公の名もリュウ。他の登場人物の名も、すべてカタカナ。彼らが使うドラッグも、滅多やたら出てくる。
ボンド以下、ハイミナール、ヘロイン、モルヒネ、マリファナ、ハシシ、LSD、ヒロポン(70年代でも、まだあったんだ)、メスカリンなんて、ある種の植物から抽出する特殊なものまで出てくる。その他、まだあったかもしれない。ニブロールの錠剤なんて、四六時中噛みつぶしている。皆、ジャンキー。
慎太郎の『太陽の季節』は、湘南ボーイ、都会の若者の物語。しかし、村上龍の『限りなく透明に近いブルー』に出てくる若者は、田舎から東京へ出てきた者ばかり。九州や、富山や、沖縄から。しかも、主な舞台は、福生。東京の西のはずれだ。しかし、この福生、重要な意味がある。米軍の横田基地のあるところだから。
村上龍が、佐世保から福生に来たのは、1971年だという。サイゴンが陥落するのは1975年だから、その頃はベトナム戦争真っ盛りの頃、横田基地からもベトナムへ向け、爆撃機が飛び立っていた。しかし、『限りなく透明に近いブルー』には、ベトナム戦争の影はない。あるのは、ドラッグとセックスだけ。
その点、石原慎太郎と決定的に異なる。慎太郎は、それまでの既成価値を紊乱するものとして、『太陽の季節』を描いた。だが、村上龍は、既成価値を紊乱するなんてことは、考えていない。クールなんだ、どこか。
こんな個所がある。
<リュウ、あなた変な人よ、可哀そうな人だわ、目を閉じても浮かんでくるいろんな事を見ようってしてるんじゃないの?・・・・・あなた何か見よう見ようってしてるのよ、まるで記録しておいて後でその研究する学者みたいにさあ。・・・・・リュウ、ねえ、赤ちゃんみたいに物を見ちゃだめよ>、というところが。リリーという女が、言うんだ。
醒めている。リュウ、即ち村上龍、醒めているんだ。クールなんだ。描いている生態はどうあれ、価値紊乱なんてことは、考えていない。アメリカに対してどうこうなんてことも、考えていない。とてもクール。だから、この小説、成りたった。
ジャズがらみ(もちろん、石原慎太郎がらみはあるが)、ということで、この『限りなく透明に近いブルー』を思い浮かべたのだが、ジャズはあまり出てこない。特に、モダンジャズは。70年代、ロックだ。ローリング・ストーンズ、レッド・ツェッペリン、ジミ・ヘンドリックス、そういう時代なんだ。私のよく知らない時代だ。
マル・ウォルドロンの「レフト・アローン」は出てくる。何カ所も。ただし、こういう形で。
<バッカみたい、何よそのレコード、またしけたピアノ聞きたがるわねえ、まるで疲れきった老いぼれじゃないのよ、それ黒人の浪花節よ>、という言葉が被さって。
しかし、ビリー・ホリデイを悼む、マル・ウォルドロンの「レフト・アローン」、息が長いんだ。
村上龍も、この曲好きだとみえる。あの出だし、私も、好き。
おそらく、今でもあちこちで聴かれているのじゃなかろうか。