高野・熊野・伊勢巡り(19) 中上健次資料収集室(続き)。

今日も柄谷行人の記述から入ろう、と思ったが、その前振りに中上健次の暴力性から。
中上文学、エロスとヴァイオレンスに塗れているが、中上健次自身、その暴力沙汰はつとに知られている。瀬戸内寂聴の『奇縁まんだら 続』(日本経済新聞出版社、2009年刊)には、こうある。
ある時、河出書房「文藝」の編集長が、仕事の打ち合わせで寂庵を訪れた。私は顔を合わすなり絶叫した。片目から頭へかけて、包帯でぐるぐる巻きにしていた。追求の手を休めず訊くと、ついに白状した。中上にやられた、と。新宿のバーで口論になり、奴が突然、ビール瓶を床に叩きつけて割って、そいつで僕の頭と顔に打ちかかった、と。
「ま、よくあることですから」、と「文藝」の編集長、すでに中上を許している、と。
で、中上健次の最大の理解者であった柄谷行人である。
柄谷行人、中上健次のようなフィジカルな暴力性を持っていたかどうかは知らない。しかし、メンタルなところでは、かなりなところがある。
昨日記した柄谷行人と渡部直己編『中上健次と熊野』の「はじめに」で、こういうことを言っている。
<中上健次に関しては全部、私がやるに決まっており、したがってやらねばならなかったのである。・・・・・。そのおかげで、私は年寄りや「心の友」というような連中から中傷を蒙ったが、知ったことか。私はやらねばならぬことをやっただけである。一方、中上を神格化している、などという批判もあったが、知ったことか。私は、中上にそれにふさわしい文学的地位を与えようとしただけである>、と。
思索し、時折り、海外あちこちの大学で研究生活を送っている男にしては、”知ったことか”、”知ったことか”、と乱暴な言葉が並ぶ。
中上健次がらみ、こうでなくっちゃ、というところもある。

中上健次没後20年の企画展についての新聞記事。
右は、2012年11月23日付けの産経新聞のようだ。
左は、中日新聞の模様。「大逆事件の影響色濃く」とか、「佐藤春夫に愛憎半ば」、という小見出しが見てとれる。裕福な医者の家に生まれた佐藤春夫と複雑な「路地」に生まれた中上健次、愛憎半ば、ということはよく理解できる。

案内をしてくれた人が言うには、全国あちこちから、中上健次の研究者や中上ファンという人が訪ねてくるそうだ。中には、これだけなんですか、と言ってがっかりした顔をする人もいる、とその人、笑いながら話す。正直言って、そうかもしれない。でも、あと10年か20年先には、中上健次記念館が誕生するであろう。
中上健次、佐藤春夫に次ぎ新宮市の名誉市民にもなっているのだから。

熊野大学である。
中上健次が1992年に死んだ後も続いている。
今年の熊野大学には、井筒和幸、中沢けい、川村湊をはじめとする人が講師を務めたようだ。

瀬戸内寂聴著『奇縁まんだら 続』から。
自分を育ててくれた編集者を割ったビール瓶で殴るなんて、なんて酷い男なんだ、と思っていたが、瀬戸内寂聴と中上健次、互いに引かれるようになる。
1978年、「熊野大学」の前身である公開講座の講師として、瀬戸内寂聴、新宮へ行く。
瀬戸内寂聴、こう記している。
<新宮の、中上文学の「路地」の中にある集会所のような建物は、ニ階建で、畳敷であった>、と。
前述の『中上健次と熊野』の渡部直己の解題によれば、1978年2月から8か月にわたる連続公開講座の講師は、次の8名。
佐木隆三、石原慎太郎、吉増剛造、瀬戸内寂聴、森敦、唐十郎、金時鐘、吉本隆明。 豪勢なラインナップである。
これらの人たちが、中上健次の誘いに応じて、新宮の「路地」の畳敷きの部屋で話していたんだ。せいぜい100人か200人か、という聴衆の前で。
昨今のピントがずれた石原慎太郎のことしか知らない若い人には、彼の名がここにあるのが不思議かもしれない。しかし、何十年か前の石原慎太郎、新宮の「路地」の狭い畳敷きの間で話す感性を持った男であった。
中上健次の中でも、最も多く出てくる心すべき男は三島由紀夫、そして、大江健三郎と石原慎太郎の三人。そういう男なんだ。

熊野大学の看板があった。

いろいろな地図を貰った。
「新宮市内案内図」とか、「新宮・文化と人権散歩地図」とか。中に、「中上健次文学地図」というものもあった。それが、これ。

佐藤春夫記念館にあった会報。
新宮市、佐藤春夫から中上健次へ、いかに繋げるか。ということに思いを致しているのかな。


実は今日、夕刻から新宿で飲んでいた。
初めは、区
区役所通りの安い居酒屋で。その後は、ゴールデン街のバーで。相手は、どうぶつ社の酒飲み・R.H.。
R.H.、こう言うんだ。
「お前、昨日のブログで、中上健次がノーベル賞を取ったであろうとかどうとか、ということを書いていたな。お前が書くのは勝手だが、そんなことは聞いたことがない」、と。
新宿で酒を飲んでいて、中上健次がノーベル文学賞を取れなかったことを知らないヤツなど、新宿で飲んでいるとは言えない。
20年近く前になるかと思うが、知人に頼まれ小文を記した。
タイトルは、「都はるみと二人の男」。都はるみがらみで頼まれた原稿であったが、二人の男のひとりが、中上健次なんだ。

3〜40年前、新宿ゴールデン街で最も知られていたバーは、「まえだ」であった。
その「まえだ」のママが喉の癌になった。手術をして復帰することになった。復帰を祝うパーティーが、京王プラザの宴会場で催された。後ろの方からは、東京会館での芥川・直木賞のパーティー以外、こんなに物書きが来ているパーティーはない、という声が聞こえてきた。
その宴たけなわの頃、中上健次が都はるみの手を取って舞台へ登った。都はるみは「普通のおばさんへ戻りたい」、と言って一時期、引退していた頃であった。でも、オーラはたなびいた。不思議だな。
中上健次が死んで、2〜3年後であるかもしれない。