一瞬の夏、そして、夢。

4月下旬に、NHKの画面から撮ったアマチュアボクサー、内藤律樹の写真を載せたことがある。
高校3冠を取り、ロンドン五輪を目指している、という若いボクサー。その時、父親のカシアス内藤については、またいつの日にか、とした。その日の深夜に流されたNHKの番組中のカシアス内藤の姿、興味深かったので。
先月下旬、「年代」というタイトルで何回か書いた折り、番外で、”10代〜60代”とでもして、この時のカシアス内藤のことに触れようか、と思ったが、やめた。それまでに書いた「年代」と、少し趣きが違うかな、と考えて。
今年の夏、異常な暑さで、まだまだ猛暑日が続いているが、暦の上では、今日で8月も終わり。で、延び延びになっていたNHKの画面を写した、カシアス内藤の姿を載せておこうと思う。「一瞬の夏、そして、夢」として。
「一瞬の夏」は、もちろん、沢木耕太郎のノンフィクション『一瞬の夏』からのもの。1980年(昭和55年)3月から翌年5月にかけて朝日新聞に連載され、すぐ新潮社から書籍化された。沢木耕太郎とカシアス内藤の、何とも言えない、不思議なつながりを追っている。
ある日の沢木耕太郎、元東洋ミドル級チャンピオン、カシアス内藤がカムバックする、ということを知る。<私には信じがたい記事だった。事実とは思えなかった。・・・・・私は五年前を思った。まだ二十代のなかばだった私と内藤との奇妙な旅を思った。朝鮮半島の入口、釜山でのやはり暑かった夏を思った>、と沢木は書いている。
その5年前、カシアス内藤は、東洋ミドル級のタイトルを奪われた、柳済斗との3度目のリターンマッチを、釜山で戦い、敗れた。日本人の観客などほとんどいない釜山での試合に、沢木耕太郎、同道している。しかし、カシアス内藤、4度目の対戦も、柳済斗に敗れる。その後、落ち目の内藤、暫くして、表舞台から姿を消す。
だから、5年も経って、内藤がカムバックするという新聞記事を読んで、沢木は驚く。『一瞬の夏』の中で、明かされるが、その間の内藤、インドネシアなど東南アジアにどさ回り(この世界ではよくある”噛ませ犬”だ)に行ったり、事件を起こしたり、水商売をしたり、という生活だった、という。
その内藤が、トレーニングを始めた、というのだ。沢木耕太郎、それを読んで会いに行く。カシアス内藤は言う。「俺、借りを返したいんだよ」、と。柳済斗に借りを返したい、と言う。で、沢木耕太郎、奔走する。
素人が、マッチメークをやろう、というんだ。その前提としての、ジムの移籍交渉。それに伴う移籍金のこと。エディ・タウンゼントとのこと。柳済斗との試合を組む為の折衝。東京とソウルを何度も行き来する。柳済斗との試合を組む為には、ファイトマネーはどの程度なのか。何も知らずに、駆け巡る。
世界フライ級チャンピオンのまま、23歳で事故死した大場政夫のマネージャー・長野ハルとの話が面白い。
<「内藤君、そんなにいい?」・・・・・「ボクシングはそんなに甘いもんじゃないと思うの。あなたは一年もトレーニングをしたといって感動しているけれど、四年もブランクがあって、一年ぐらいで元に戻ると思うのはボクシングを甘く見すぎている証拠よ」・・・・・「あるいは、内藤君への同情なのかな?」>、と当時名門の帝拳ジムを支えていた女性マネージャーは、沢木に言う。
沢木の内藤への思い、同情ではなかろう。二人旅、そうしたかった二人旅に違いない。しかし、さすが世界チャンプを育てた長野ハル、その言葉に違いはなかった。カシアス内藤のその後を見ると。
カシアス内藤、今、61歳。5年半前の2005年2月、生れ故郷の横浜に、念願のジムを開いた。「E&J カシアスボクシングジム」を。Eは、”内藤は、臆病なヤツだが、才能は一番”、と言って内藤を育てた、エディ・タウンゼントの頭文字のE。Jは、内藤の本名・純一のJ。
内藤は、自らは成し得なかった世界チャンプの夢を、今、指導者として追っている。もちろん、二人旅の沢木耕太郎、ジム開設にあたっても、ひそやかにフォローしている。
それはそれとして、今のカシアス内藤の姿、NHKの画面を写したものを載せよう。

こうして見ると、内藤の顔、さまざまなことを経てきた深みがある。
何年も前、咽頭がんを宣告された、という。だが、抗がん剤と放射線治療できた、という。手術をすると、声が出なくなるので、それでは指導ができない、そう言って手術をしなかったそうだ。

番組中、タイトルを奪われ、都合4度敗れた柳済斗をソウルに訪ねている。
柳は、こうも言っていた。内藤さんは、私が戦った中では一番強かった、と。これは、引退したボクサー同士が会った時の挨拶。お元気のようですね、というのと同義語だが。

内藤、息子の律樹を連れて行っている。ソウルの柳済斗のジムで、柳に律樹の練習を見てもらっている。
はっきり言えば、ここらあたり、カシアス内藤の感動物語を創る為のNHKの演出、という面もあるのだが。
『一瞬の夏』の中では、柳済斗、悪者なんだから。

まあ、そうは言っても3〜40年経った今、柳済斗は、ロンドン五輪を目指す、若いカシアス内藤の息子に、こういうアドバイスをしている。
内藤律樹、クォーターであるが、朝鮮戦争で死んだ、黒人米兵であるジイさんの血を、強く受け継いでいるようだ。

こういうことも。
カシアス内藤、じっと見守っている。

横浜の自らのジムでの内藤。
後ろに貼ってあるポスターには、”ALI”の文字が見える。
実は、何時の、どのようなポスターかと思い、モハメド・アリに関する書を漁っていた。ジャック・ルメル著『モハメド・アリー ブラック・アメリカン・ファイター』の中に、このポスターの写真が出ていた。
1976年9月28日、ニューヨークのヤンキースタジアムで行われた、アリとケン・ノートンとの世界戦のポスターだった。この時、モハメド・アリ34歳、前年マニラで、強敵ジョー・フレイジャーを破った後、大方の予想を覆し、ノートンを下した。
カシアス内藤、アリの前名・カシアス・クレイからとった、カシアスのリングネームに初めは抵抗感を持っていたそうだ。しかし、、30をはるかに超えてチャンプを張っていたアリの姿に、自らの夢を重ねているのかもしれない。

試合に負け、半月ばかりジムに出てこなかった選手の頬を撫ぜ、頭を抱いていた。
「お前ばかりじゃないんだ。みんな怖いんだ」、と言って。内藤、優しいんだ。だから、現役時代、世界チャンプになれなかった、と言われる。優しすぎるから、と。それはともかく、優しい心根の男であるのは確かだ。

こういう横顔、マハトマ・ガンジーを思わせる。

実は、この番組のタイトル、こういうものだった。

エンディングは、こうだった。40年近く前の内藤の顔。
今、61歳になったカシアス内藤は、夢を追っている。世界チャンプを育てたい、という夢を。
ところで、沢木耕太郎が走りまわった内藤と柳済斗の一戦、成らなかった。盛りを過ぎた柳済斗、引退した。ソウルで、新しい相手、朴鐘八との東洋・太平洋ミドル級王座決定戦が組まれた。だが、カシアス内藤は、KOで敗れた。
沢木耕太郎は、外出禁止令の時間が迫っていた戒厳令下のソウルの町を、ホテルまで走って帰る。1979年のソウルの夜。
「一瞬の夏」は終わり、30年後の今、カシアス内藤は、夢を追っている。
つかず離れず、”二人旅”の沢木耕太郎も、共に。