手練れの道行。

今年は猛暑ばかりが騒がれ、味気がないが、今日は二百十日。越中八尾では、”おわら風の盆”である。
昨日の沢木耕太郎の『一瞬の夏』は、まあ、男が男に惚れた話、と言ってもいいが、世の中の惚れた腫れたの話は、男女間のものの方が、もちろん多い。
この時節、その最たるものは、高橋治の『風の盆恋歌』であろう。
初版は、25年前、昭和60年、新潮社から上梓されている。何しろ、話作りに関しては、手練れの高橋治が、これでもか、という気概をこめて書いた恋物語なんだから。
この小説が世に出た後、9月1日から3日までの八尾の風の盆へ来る人は、10倍近くに増えたそうだ。その何年か後、なかにし礼作詞、三木たかし作曲で、石川さゆりが歌った同名の歌も、それを増幅したようだが。
忍びあう恋、道ならぬ恋、つかの間の逢瀬、そして、心中へ。ややモダンな近松の世界。
三味の音と、哀切極まりない胡弓の調べ、そして、”越中で立山 加賀では白山・・・・・”、という一拍遅れたような出だしの歌。高橋治の小説を読んだ人や、石川さゆりの歌を聴いた人は、皆その気になる。我が身を、主人公の世界に置き換えたくなっておかしくない。現実は、そうはいかないのだが。
男は、全国紙の外報部長、その妻は、弁護士。子供はいない。女は、和歌を詠む専業主婦、その夫は、京都の国立大学病院の部長、つまり、京大の偉い医者。子供はひとり。このような条件に当てはまる人は、そうはいないだろう。しかし、大方の人は、それに嵌まる。当然だ。高橋治の上手いところだ。
彼らの年代は、50前後。ついでに言えば、50前後という年代は、人を恋するボーダーラインである。それを越え、60、70でもという人もいるが、それは少し趣きを異にする。
それはともかく、皆、学生時代を金沢で過ごした仲間なんだ。それが、2〜30年後、火がついた。死への道行が始まる。金沢、パリ、八尾、そして、八尾、白峰、杉津、そしてまた、八尾、へと。
この男、八尾に、9月1日から3日までの3日間だけ使う家を買う。毎年、この期間待つ。4年後、初めて女が来る。やや黄ばんだ地に朱ともつかない井桁模様の琉球絣を着て。
小道具、背景、周辺状況にも、ふたりの道行を盛り上げる設定に、こと欠かない。一日限りの酔芙蓉、白麻の蚊帳、おさん茂兵衛の浄瑠璃、八尾で彼が行く喫茶店のマスターは、刀鍛冶でもある。さらに、江戸中期の金沢の俳人・堀麦水の句、パリでのジョルジュサンクからセーヌへの道、夢、幻、死装束を作った牛首紬。これでもか、という背景が表われる。
そして、死。3年後、女主人公、八尾で後追い心中をした。手練れの高橋治、洒落た恋物語を紡ぎ出した。
”唄の町だよ 八尾の町は 唄で糸とる オワラ 桑もつむ”。
今ごろ、八尾の町では、町流しが続いているだろう。