立派な行い。

昭和の8月、戦争の、終戦、敗戦の8月、立派な軍人の話で終えよう。
聖将と呼ばれる、陸軍大将・今村均である。
今村均は、東京で、大本営の中枢で、指揮を取っていた軍人ではない。前線の司令官として戦っていた軍人である。
開戦直後、第16軍司令官として、オランダ領東インド(インドネシア)作戦、ジャワ攻略戦を指揮、短時日の内にオランダ軍、さらに、イギリス軍、オーストラリア軍、約10万を降伏させた。その際、オランダに囚われていたスカルノはじめインドネシア独立運動の志士を、獄から解放した。
大東亜戦争は、欧米の帝国主義列強から、アジアの国々を解き放った植民地解放戦争だ、という論がある。これはウソ。明らかな詭弁である。日本自身、そのような欧米列強を見習っていたのだから。ずっと欧米列強の後を追い、帝国主義、植民地主義であったのだから。
今村均が、スカルノはじめインドネシア独立を目指す革命家を、獄から解き放ったのも、もちろん、日本の都合である。しかし、今村がその後、占領地に対して行った軍政を思うと、そのような側面もまったくない、とは言えないのでは、とも思えてくる。あくまで、結果としては、ということだが。
今村均が占領地の人々に対して行った軍政、圧政ではなく、善政だったそうだ。だから、大本営からは、よく思われていなかった、という。手緩いんじゃないか、ということだろう。
その後、第8方面軍司令官として、ニューブリテン島のラバウルへ、ここで終戦を迎える。ここでは、飢餓に苦しんだガダルカナルの教訓から、畑を作って自給体制をはかり、持久戦に備え、終戦まで持ちこたえた。
実は、今村均が立派な司令官であり、偉い男であるのは、ここからだ。
昭和21年4月、自らラバウル戦犯収容所へ出頭、オーストラリア軍による軍事裁判で、禁固10年の判決を受ける。その後、オランダ軍による軍事法廷にもかけられ、死刑の求刑を受ける。しかし、ここでは、最終的に無罪となる。今村均が占領地で敷いた軍政、現地の人にも受け入れられた面多く、オランダ軍、どこをどう探しても、結局犯罪要因の立証ができなかったのであろう。
しかし、死刑の求刑がなされた時、クリスチャンである長男は、処刑される前に洗礼を、という手紙を書いた。今村均、受洗はしていなかったが、キリスト教に深い関心を持ち、戦場にも聖書を持って行った、という。
息子の願い、心配に対し、今村均、こういう返事を書いている。『昭和の遺書』から一部を引く。
<私は聖書にあらわれている神の愛を信じ、イエスが罪人救済のために説かれた道を有難いと敬仰している。また私が神に対する大きな罪人であることは自認しており、その上いく万の部下をたおし、しかも祖国をこんな窮境に陥れた大罪責を負う者として死後に天国や浄土に往くことは絶対にない、そんなことを望むのは許すべからざる僭上の沙汰であることをつくづく思いきわめている。・・・・・>、と。
洗礼など受けようが受けまいが、神の愛、イエスの心は知ってるが、としているが、それよりも、軍人として、指揮官としての責任感が溢れている。
昭和25年1月、インドネシアから巣鴨拘置所に送られる。しかし、今村均、占領軍に直訴する。かっての部下の将兵が多く収容されているマヌス島の刑務所へ送ってくれと。3月、マヌス島刑務所へ。
昭和28年8月、マヌス島刑務所の閉鎖にともない巣鴨拘置所へ。翌昭和29年11月、巣鴨出所。昭和43年10月、83歳で死去する。
巣鴨出所後は、自宅の一隅に3畳の粗末な小屋を作り、戦闘で、また、戦犯として命を落とした部下たちへの罪責の念から、そこに自らをを幽閉するかのような日常を送った、という。それと共に、旧部下の人たちのための金策や就職の斡旋に奔走していたそうだ。
今月初めにも記したが、今村均、昭和38年の半藤一利が司会した文藝春秋の座談会にも出ている。また、それをドラマ化した先日のNHKの「日本のいちばん長い夏」のエンディングも、今村均が罪責の日々を過ごした3畳の小屋をディレクターが訪ねる場面であった。
今村均、軍人としても、指揮官としても、また、ひとりの人間としても、立派な行いをした人だと思う。