責任と自裁(続き)。

<日本の歴史を見渡しても、昭和ほど数多くの遺書が書かれた時代はない>、と梯久美子は『昭和の遺書 55人の魂の記録』で書いている。
そりゃそうだ。遺書を書いて然るべき年代の人たちばかりでなく、あらゆる年代の人が、いつ死んでもおかしくない局面に晒されていたのだから。未曾有の戦乱の時期。
梯の書、昭和初めの、<・・・・・が、少なくとも僕の場合は唯ぼんやりした不安である。・・・・・>、という世に知られた一節がある、芥川龍之介の遺書から、昭和の終わり、昭和天皇の最後の御製<あかげらの叩く音するあさまだき音たえてさびしうつりしならむ>、までの謂わばアンソロジー。しかし、やはり昭和という時代、戦争にまつわるものが多い。
で、あと二人、開戦時の首相兼陸軍大臣(一時は、参謀総長も兼ねる)東條英機と、3度首相を務めた近衛文麿、この第二次世界大戦に深く関わった二人に触れる。その責任の取り方に。
東條英機は、昭和20年9月11日、自邸で拳銃自殺を図った。A級戦犯容疑者として逮捕にきたMPを外に待たし。杉山元が自決した前日である。だが、失敗した。弾丸が心臓をわずかに外れていた、ということもあろうが、米軍の医師、懸命の手術、治療をした。東條を死なせてなるものか、何としても法廷に引っぱり出すんだ、ということだったろう。
生かされた東條英機、その後の東京裁判(極東軍事裁判)で絞首刑の判決を受け、昭和23年12月23日、処刑される。
しかし、東條のこの拳銃による自決の失敗、評判が悪い。当時、さまざまな人が悪し様に言っているようだし、後々の人でも酷く言う人もいる。なぜ阿南惟幾のように短刀で割腹しなかったのか(阿南は、ポツダム宣言受諾の聖断が降りた14日夜、短刀を用いて割腹している)、拳銃を用いるにしても、なぜもっと口径の大きな拳銃を使わなかったのか、情けない、と。
私は、そうは思わない。東條英機、たしかに戦争を主導した。昭和19年7月に首相、陸相、さらに参謀総長の職を離れてからも、重臣として天皇を支え、国策に関わった。その責任は重い。しかし、情けない男ではない。
自決の失敗後処刑まで、3年余の間、巣鴨プリズンで過ごしたので、さまざまな人に宛てた東條の遺書は幾つもあるそうだ。公的、私的なものを含め。
公的なものでは、国内的には、自らの責任は死を以って贖えるものではない、として、戦争に従事して斃れた人及び此等の人々の遺家族に対し、謝っている。天皇に対しても。しかし、国際的の犯罪としては無罪である、勝者の裁判たる性質を脱却せぬ、と記している。天皇の存在は、動かすべからざるものである、とも。
『昭和天皇独白録』は、大東亜戦争の遠因、近因、経過及び終戦の事情などについて、昭和天皇が語ったものを記録したものである。あの時は、こうであった、ということを語っておられる。それと共に、軍人、政治家、皇族方、昭和天皇が接した多くの人々の人物評が語られている。実は、概ね厳しい評である。
それが、一昨日も記した、天皇御自身による戦争の敗因分析にも出ている。英米を侮った、軍人は精神に重きを置きすぎた、明治天皇の時の、山縣有朋や大山巌や山本権兵衛のような人物がいなかった、だから、負けた、という。上御一人・御自身のことについても少し、という思いもあるが、それはあまりない。
しかし、東條英機に対しては、概ね良い評を語っている。<元来東條と云う人物は、話せばよく判る>、<東條は一生懸命仕事をやるし、平素云ってゐることも思慮周密で中々良い処があった>、等々と語っている。
東條が首相を辞した時に関しても、<東條は平沼から云はれて辞表を提出した。袞龍の袖に隠れるのはいけないと云って立派に提出したのである>、と語る。念のため、”袞龍の袖”とは、天子の威徳の下、という意である。
東條英機、もちろん、戦争に対する責任はある。重い。これは間違いない。しかし、人間としては、とも思う。東條英機のこと、少し勉強してみようか、とも。東條、最後まで昭和天皇を護ったし。
その東條、失敗に終わった9月11日の拳銃自殺の2日前、夫人に宛ててこのような遺書を書いている。
葬儀は、東京で行わず、夫人の実家で子供たちだけで行え。遺骸は、政府、あるいは敵に渡してもよい。葬儀には、頭髪や爪だけで結構である。<魂は公的には国家と共に、私的には御身と子供の上にあって守るべし、安心せよ>、と。
魅力的であり、人間的な遺書である、と思う。
3度も首相の座についた公爵・近衛文麿は、どうであろうか。
近衛家は、五摂家筆頭。天皇家に最も近い華族である。近衛文麿は、昭和20年12月16日、服毒自殺した。その日が、出頭期限であった、という。公家であるから、短刀や拳銃を用いず、服毒というのは肯ける。
近衛の遺書の一節に、こうある。
<僕は支那事変以来多くの政治上過誤を犯した。之に対し深く責任を感じて居るが所謂戦争犯罪人として米国の法廷に於いて裁判を受けることは、堪え難いことである>、と。
近衛の遺書には、反省と弁明、そして、貴族としての矜持が入り混じっている。近衛は、アメリカによる裁判を拒否した。自殺の前夜訪れた近衛のブレーンに、こうも話したそうだ。「僕のこの気持は、イギリス人にはわかるかもしれんが、アメリカ人にはわかるまい。貴族をもたぬアメリカ人には・・・・・」、と。
日本という国を左右する時期に、3度も首相の座につきながら、ここぞという時には、投げだした。ターニングポイントとも言える昭和16年9月6日の御前会議の時の首相は、近衛文麿であった。10月上旬までに対米交渉が纏まらない時には、開戦を決意する、との御前会議の時の。
しかし、その後、投げだした。東條が継ぎ、その後、真珠湾へと突入した。
近衛文麿にとっては、自殺がなったことが、せめてもの救い。人間としては、東條英機の方に、より魅かれる。