今に繋がる戦後の動き。

どんなに有能な人でも、場を得ないことには、その力を発揮できないものである。運ということもあれば、人と人との繋がりということもある。
敗戦後、知米派の外交官は大勢いた。語学に堪能な人も多くいた。しかし、GHQとの関わりが非常に重要な敗戦後の数年、寺崎英成が昭和天皇の御用掛になったことは、日本にとって幸いだった。この間に、今の日本の大枠が決まったのだから。今に繋がるマスターチャートが。
昭和26年、寺崎英成が50歳という若さで死んだ後、昭和天皇からの聞き書きと共に、寺崎の日記が発見された。遺品を整理していたご遺族は、寺崎の日記が出てきた、と思われていたそうだ。が、実は、その中にあの貴重な『昭和天皇独白録』が含まれていた、という方が正確なのだが。
しかし、『寺崎英成御用掛日記』も大変興味深いものである。寺崎の私的な日記である。敗戦の日、昭和20年8月15日から昭和23年2月15日までのもの。文藝春秋発行の『昭和天皇独白録』に同載されている。私的なものであるから、何を食べたとか、歯医者に行ったとか、といったことも多くでてくるが、何と言っても、敗戦後の歴史的なことごとに関しての内幕がよく解かる。
寺崎英成、開戦時はワシントンの日本大使館で任務についていた。開戦後抑留され、翌昭和17年8月、日米交換船で日本へ帰る。アメリカ人の夫人とひとり娘(この人が、よく知られたマリコ)と共に。終戦時は、休職中だったが、昭和20年11月、外務省に復職、翌昭和21年1月、昭和天皇の御用掛となる。
ここから、寺崎英成ならではの活躍が始まる。寺崎の日記にも、敗戦後の重要な歴史的事件の内幕が出てくる。
昭和天皇とマッカーサーとの会見(敗戦直後の第1回目は、もちろんしていないが、2回目以降の会見の通訳の過半は、寺崎が務めている)、昭和天皇の戦争責任問題(それ以前、何度にもわたるA級戦犯容疑者の逮捕で、後に釈放されるが、皇族である梨本宮もが逮捕されていた。1月22日には、ロンドンでの連合国戦争犯罪委員会で、オーストラリア代表が昭和天皇を含む63人の主要戦犯リストを提出していた。ソ連、中国も天皇訴追の方針であった)、さらに、退位問題、バイニング夫人の選定問題、2.1ゼネスト問題、新憲法制定問題、その他さまざまな重要問題が出てくる。
それぞれが、とても興味深い。特に、寺崎英成、天皇とGHQそれぞれの意向を伝える連絡係、という役目をはるかに超えた働きをしている。
1月25日にマッカーサーがアメリカの参謀総長・アイゼンハワーに返事の電報を送っている。天皇を戦犯にすることは不得策である、との。アイゼンハワーからの求めは、天皇を戦争犯罪人とすべきかどうか、詳しく調査せよ、との指令だったのだから。そういう時代であったのだ。寺崎の力、大いに発揮された。
何しろ、御用掛となった後の寺崎、マッカーサー直属の軍事秘書・フェラーズはじめ、副官・バンカー、政治顧問・アチソン、外交局長・シーボルトといったGHQの最高首脳部と頻繁に会っている。マッカーサーへの影響力を持つ人物と。
政治力も発揮している。何とは言わないが、天皇の意向ということばかりでなく、天皇プラス寺崎の考えではないか、と思われるところも。寺崎英成、単なる御用掛の域を越えた働きをした、と考える。英語でGHQ高官とわたりあえる、知米派という範囲を越えた。
いずれにしろ、寺崎英成、今に繋がる日本の基礎を作ったひとりだろう。