満洲。

江成常夫の写真展『昭和史のかたち』には、点数は少なかったが、「偽満洲国」、「シャオハイの満洲」というコーナーもあった。
江成常夫、1981年以来度々訪中、傀儡国家・満洲、そして、残留孤児を写し取り、”戦争の昭和”を告発している。
1931年(昭和6年)9月18日、満洲事変勃発。
関東軍、奉天(現瀋陽)郊外、柳条湖の満鉄線路を爆破する。これを口実に、関東軍、全満洲を占領する。中国、このことを忘れていない。柳条湖の爆破現場に、「勿忘九・一八」という名の博物館を造っている。このこと、以前にも記した。
1932年(昭和8年)3月1日、満洲国建国。
清朝のラストエンペラー・愛新覚羅溥儀、満洲国の執政となる。傀儡国家の誕生だ。満洲国を承認した国は、日本一国のみ。満洲の首都は、新京。長春を、新京と改名した。
1934年、愛新覚羅溥儀、満洲国皇帝に即位。
1937年、盧溝橋で日中両軍が衝突、日中戦争始まる。
1941年、日本、真珠湾を奇襲、太平洋戦争始まる。
1945年8月15日、日本、ポツダム宣言受諾。
日本の敗戦により、傀儡国家・満洲国も消滅した。
満洲、日漢鮮満蒙の五族協和、と謳われた。しかし、それは言葉のみ。その実体は、日本人が支配する傀儡国家。
江成常夫の写真集『まぼろし国・満洲』(新潮社、1995年刊)から、江成の写真を何枚か複写する。

満洲国合同法院。今は、中国空軍の医院となっている。

満洲国の首都・新京には、さまざまな建物が造られた。関東軍の司令部など、お城のようなバカデカイ建物である。日本、傀儡国家の首都に、威風堂々の建物を次々に造った。
これは、その関東軍司令部に隣接する、関東軍司令官の官舎。右は、その内部。

暗くて解かり辛いが、左は、満洲事変勃発時の布告文。
大日本関東軍司令官本庄繁の名で、布告されている。陸軍中将・本庄繁も、前の写真の関東軍司令官の堂々の官舎に住んでいた。
右は、ご存じラストエンペラー・愛新覚羅溥儀の肖像。
溥儀の起居していた皇宮、今は、「偽皇宮」として一般に公開されている。
15年ほど前になろうか、満洲に行った。
中国では、満洲時代のもの、すべて、”偽”の字を付けている。満洲という国、すべて偽物だ、ということだろう。だから、溥儀の皇宮も、偽皇宮。そういえば、坂本龍一が甘粕正彦に扮したベルトルッチの映画『ラストエンペラー』にも、溥儀の偽皇宮が出てきた。雰囲気があった。そう言っちゃいけないが。

満洲国、首都の新京はじめ都会地には、次々と建物を建て、整備していった。しかし、満洲、五族協和のみならず、王道楽土の地、と喧伝した。辺境の地に、日本から、満蒙開拓団を送りこんだ。農家の次三男が、次々に満洲の地へ渡った。開拓団として。
この写真、左は、千振村。右は、弥栄村。
いずれも、代表的な開拓の村。

弥栄村。
江成常夫、この写真のキャプションに、こう書いている。
<20年間に100万戸、500万人を入植させる満洲移民計画が、日本の政府閣議で決まるのは、1936(昭・11)年8月。東満、北満一帯に日本人を大量に投入し、開拓の増強と対ソ戦略の前線基地を強化することが目的だった>、と。
日本の敗戦まで、実際に開拓団として、満洲に渡った日本人は、27万人だという。しかし、この人たちが、敗戦後、大変な眼に会った。残留孤児となった人たちが多くいる。
江成常夫の写真集『シャオハイの満洲』(集英社、1984年刊)から、何枚か複写する。

<シャオハイとは、中国語で子どものことである>、とこの書の扉で、江成は記す。
帯に推薦文を書いている宮尾登美子は、1945年、終戦の年に、開拓村の教師である夫に従い、満洲へ渡っている。だから、<必ずや皆さまの胸に、未だ癒えぬ戦争のむざんな傷あとが、強く強く訴えかけてくるはずです>、と書いている。


同書巻頭にある「旧満洲国地図」。
地図の中央部にあるのが、首都・新京。その南に奉天、さらに南の遼東半島には大連。新京の北には、哈尓濱(ハルビン)。
実は、私は、新京で生れた。ヤクザな男の息子として。残留孤児となった方々と同世代だ。しかし、残留孤児となった方々は、これらの都会地ではなく、辺境の開拓地の人が多い。理不尽なことが積み重なって。
1945年8月9日未明、ソ連が満洲に攻めこんできた。日ソ中立条約を破棄し。関東軍は、真っ先に退却した。辺境の地、ソ満国境に入植していた開拓団の人たちの運命どうなったか、言うまでもない。多くの残留孤児が生じた。
江成常夫の写真集『シャオハイの満洲』には、96人の残留孤児の方々が写し取られているが、その中から二人のみ。

張永興さん。こう話す。
<敗戦まで佳木斯(チャムス)に近い開拓団にいた。・・・・・ソ連が侵攻したときは父は応召していたらしく家にはいなかった。その年私は五歳ぐらい。母に連れられて大勢の避難民とともに開拓村を離れた。・・・・・>、と。

この人は、孫桂珍さん。孫さん、こう語る。
<孫家に貰われたとき四歳ぐらいだった。実の父母の名前も私の日本名もわからない。・・・・・一九六一年に結婚した主人は、人民公社の中学校で教師をしている。養父は亡くなり、育ててくれた養母は六九歳。・・・・・>、と。
江成常夫、同書の「あとがき」の中で、こう書いている。
<今、多くの日本人は敗戦にまつわる不幸を忘れ、余る物質と身勝手な自由をむさぼっているように映ります>、と。
江成常夫がこの書を上梓したのは、1984年。日本は、まだバブル真っ盛りの頃だ。飲めや唄えや、とやっていた。江成が憤慨するのも、当たり前の時期であった。
しかし、はるか昔にバブルもはじけ、尚且つ、大震災にもみまわれた今の時代でも、江成常夫の問題提起、的を射ていること、多いのじゃないか。