戦陣訓。

夜、NHKの「”玉砕”隠された真実・・・」という番組を見た。
昭和18年5月29日、圧倒的な米軍の火力の前に、アッツ島守備隊2638人の日本軍、玉砕した。
大本営、こう発表したという。「援軍も請わず、弾薬の要請もせず、玉砕をした。荘厳にして、壮烈な玉砕である」、と。しかし、それ以前に、アッツ島の守備隊長・山崎大佐(玉砕後、中将に昇進している)は、援軍の派兵、さらに、砲弾、糧食の要請を出していた。それが、隠された真実ということ、だという。大本営、アッツ島を捨石にした。
それまでにも玉砕はあったが、大本営、”任務終了につき、転進”、という発表をしていた、という。”玉砕”の発表は、アッツ島が初めてのケース。”転進”という言葉では、追いつかなくなったんだ。それと共に、”玉砕”という言葉で、国民精神の高揚を、という思惑があったこと、容易に想像できる。
守備隊の中で、27人が銃弾を受けて動けなくなり米軍の捕虜となった。1%の人だ。おそらく、自決の為の手榴弾のピンも抜けなくなって、捕らわれたのであろう。今、90歳前後となった、生残り捕虜となった老人が3人出てきた。その3人のご老人、「今、生きているのが、恥ずかしい」、ということを語っていた。
”生きて虜囚の辱めを受けず”の「戦陣訓」の教え、戦後65年たった今でも、その心に重く圧しかかっている。
藤田嗣治の戦争画に、”アッツ島玉砕”と題された作品がある。昭和18年、アッツ島玉砕の発表のすぐ後、描かれている。
今年初め、「芸術新潮」の21世紀に残すべき「日本遺産」の特集の折り、美術批評家の椹木野衣が、この藤田の絵について書いていた。宮本三郎の”山下、パーシバル両司令官会見図”と共に。戦後、GHQによって接収されたこれらの絵、今、近代美術館にあるが、返還ではなく、アメリカから日本への無期限貸与となっている。
アッツ島の作戦に参加したアメリカの老人は、こう言っている。「私は、バンザイの意味は知らないが、日本兵は、自殺をするかのように、刀と手榴弾で突撃してきた」、と。しかし、藤田嗣冶の”アッツ島玉砕”の絵は、この老アメリカ退役軍人の話とは、どこか違うように感じられる。
藤田も、昭和18年には、”生きて虜囚の辱めを受けず”という「戦陣訓」を首肯していたのであろう。この絵を描いたばかりに、戦後、藤田は糾弾を受ける。藤田は、日本を捨て、フランスに去る。戦時の日本のみならず、藤田は、その後の日本も、みな捨てる。