中国文明。

今日は薄曇り。で、東博へ。「誕生! 中国文明展」観る。
中国王朝文明発祥の地、黄河のほとり河南省で発掘された文物が展示されている。4000年ぐらい前の夏時代のものから、900年ばかり前の北宋時代のものまで。

世界の4大古代文明は、ナイルのほとりのエジプト文明、チグリス、ユーフラテスに挟まれたメソポタミア文明、インダス河畔のインド文明、それに、黄河河畔の中国文明。小学校か中学校で習う。しかし、中国文明を除く他の文明は、その後消滅する。
黄河流域を発祥の地とする中国文明のみが、その後もさまざまな王朝の興亡と共に、連綿と受け継がれていく。多くの王朝が起こったり、滅んだりしているのであるが、文明は、受け継がれていく。
上の看板の緑色っぽいものは、動物紋飾板。夏時代、紀元前17〜16世紀のもの。長さ16.5センチの小さな装身具である。
青銅製の板にトルコ石の小片を嵌めこんで、動物の姿を真上から見た様を表わしている。キツネを思わせる頭があり、口の両側に前脚が伸びている。看板では、キツネの頭の部分しか用いられていないが。
紀元前1世紀、前漢時代の金縷玉衣もあった。死んだ王侯貴族の身体を、板状にした玉石2000余枚で被ったもの。玉石を綴るには、金の糸が用いられている。玉が遺体を腐敗から守ると信じていたそうだが、もちろん、遺骸は朽ちて中はない。金縷玉衣、実は、中国各地に案外多くある。何処だったか思い出さないが、以前2度ほど博物館で見たことがある。
玉器もさまざまあるが、私は、4000年前からの古代のものでは青銅器が好きだ。鼎や尊はまだしも、その形状、用途によって、難しい漢字の名前がついている。名は読めないが、その重厚にして繊細な趣き、中国ならではのものである。
前漢時代、紀元前3〜1世紀の、女子俑頭部があった。口元などに鮮やかな色彩が残っている。鮮やかな朱色が。2千数百年経っているのに。
実は、私も、前漢ではないが、後漢の女子俑の頭部を持っている。後漢であるから、紀元後1世紀ぐらいのものである。
今はないが、15年か20年近く前、池袋に骨董屋が2〜30軒入っている骨董館があった。夜遅くまでやっていたので、仕事が終わった後、時折り寄っていた。ある時、うぶ荷を開いているところに出くわした。グシャグシャの新聞紙の中から十数体の俑が出てきた。全身のものもあれば、頭部だけのものもある。
その店のオヤジに聞くと、後漢の俑だという。暫くして、思いきって値を聞いた。やはり、私などには手が出せる値ではない。でも、ほしくなった。中で、頭部のみで、最もコンディションの悪いものの値を聞いた。色彩はもとより、輪郭もだいぶぼやけているものの。これなら、手が出せるかと思い。
そのオヤジは言った。「たしかにこれは一番状態が悪い。しかし、後漢の俑だからな、あなた」、と。やはり、オヤジの言値は、私には荷が重かった。さんざ粘ったあげく、結局手に入れた。オヤジの「あなた、元値を切ってるんだぜ」、という声と共に。その俑、私のところのさまざまなガラクタの中で、最も高価なものとなった。
私が持つガラクタの中では、最も古い。それが、これである。

顔かたち、ずいぶんすり減っている。色彩も落ちている。何しろ、一番程度の悪いものを買ったんだから。
ところが、この後、ソウルのインサドン(仁寺洞)を歩いていたら、これとよく似た俑を見かけた。何体もあった。その1〜2年後、ロンドンのポートベローでも同じような俑を見た。おそらく、出所は同じだ、と思った。と言うことは、世界中あちこちに、その俑は出回っているに違いない。1900年前の後漢の俑として。
怪しい、ということは感じている。でも、それでいい、とも思っている。あのオヤジの、1900年前の後漢のものだ、という言葉だけで。あのオヤジも商売なんだから。
中国の俑では、時代は下がるが北宋時代、900年ばかり前の俑もある。

3〜4年前、香港のキャットストリートの小さな骨董屋のショーウインドで見かけた。
高さ、10数センチほどの小さい俑。高い髷を結っているので、初めは女の顔かと思ったが、男のようだ。彩色は落ちているが、顔の輪郭は鋭い。惹きつけられた。店に入り値を聞くと、思っていたものの半分ほどの値が返ってきた。北宋の頃のものだという。これも怪しい、とは思っているが、それでもいい。
連綿と続く中国文明、さまざまな人に、さまざまな思いをもたらしている。