慰霊、鎮魂の旅。否戦の意思。

太平洋戦争の激戦地、フィリピンでの日本人の戦没者は51万8千人。
1973年、日本政府はマニラ郊外カリラヤに「比島戦没者の碑」を建立した。今日昼過ぎ、天皇皇后両陛下が訪れられる。
以下、テレ朝の画面から。

それまで降っていたという雨も上がる。
天皇皇后両陛下を待つ「比島戦没者の碑」。

1時前、天皇皇后両陛下到着される。
天皇皇后両陛下、日本から持って行った白菊を供花台へ捧げ、深く首を垂れる。
どのようなことを祈られていたであろうか。いかなることを思われていたであろうか。

その後、遺族や比島戦の生き残りの元兵士たちへ言葉をおかけになる。ひとりひとりへ。

天皇も。
これが先帝から引き継いだ責務だ、と。

皇后も。
お心をこめて。

その少し前、現在97歳の押元さんという元兵士、テレビの前でこう語る。
ここで押元さんが、「お前」と呼びかけているのは、フィリピン戦線で敵弾によって火の玉のようになり死んでいった戦友に対してである。
”朕は汝ら軍人の大元帥なるぞ”、「軍人勅諭」にある天皇の赤子としての最後の言葉、「天皇陛下バンザイ」を発することもできず死んでいった一兵士に、押元さんは呼びかける。
「天皇陛下が来てくださるんだぞ、見えるか、解るか」、と。


古屋健三 今日、芸術院会員をお断りになったそうですが、その話から伺いましょうか。
大岡昇平 ・・・・・、戦争体験ということがいかに深いかということなのでね。「生きて虜囚の辱を受けず」という『戦陣訓』の教えを、私は拳拳服膺していたわけじゃないけれども、いかにマラリアで、不可抗力であったとはいえ捕虜となったということが恥ずかしいし、・・・・・、同じ国から金をもらうということはどうも。それからあれには天皇の陪食がくっついていますから、天皇の前には恥ずかしくて出られないですよ。そういうことが第一の理由です。
少し長くなったが、大岡昇平対談集『戦争と文学と』(昭和47年、中央公論社刊)から引用した。
この書、『俘虜記』、『レイテ戦記』、『野火』の大岡昇平、野間宏、阿川弘之、いいだもも、その他の文人との対談集。
司馬遼太郎との昭和47年の対談「日本人と軍隊と天皇」が面白い。
昭和47年、横井庄一さんがグァム島から出てきた年である。戦後27年も経って。「恥ずかしながら」、と言って。また、中曽根康弘が防衛相となり四次防が策定された年でもある。
大岡昇平と司馬遼太郎、「戦陣訓」、「天皇陛下バンザイ」、「四次防」、「自民党に票が集まる」、といったことに「否や」を示している。
それから40数年、大岡昇平と司馬遼太郎が「そうなりゃ僕もやりますよ」、と語っていた状況に近づいている。
政治への言及は禁じられている今上天皇のお心も、否戦。
そのためへの慰霊、鎮魂の旅。
両陛下とも80代となられている。体力の低下は、明らかである。だが、その頭の中では、こういうことも思われているのではなかろうか。
まだ、満州・中国東北部、朝鮮半島、シベリアがあるな、と。
否戦の意思をこめ、先帝・昭和天皇がやり残したことごとを辿っている今上天皇の慰霊の旅、まだまだ続くやも知れない。