8月9日。

65年前の今日、原爆、長崎へ投下さる。
NHKの祈念式典中継を見つつ、11時02分、黙祷す。
広島での式典には参加した駐日米国大使・ルースは、長崎には出席せず。日程の都合がつかない為、との理由。そりゃそうだろう。広島も長崎も一挙に、というわけにはいかない。65年前の戦争に関しては、米国内の世論、単純ではない。オバマ、カードを少しだけ切って、米国民の反応を見ているのだから。
65年前の今日、8月9日、御前会議が開かれている。
大江志乃夫著『御前会議 昭和天皇十五回の聖断』(中公新書 1991年刊)によれば、昭和天皇の御前会議は、御前会議という名称で開かれた会議が11回、「御前に於ける最高戦争指導会議」の名称で開かれた御前会議が4回、つごう15回の御前会議が開かれている。この日の御前会議は、その第14回目のものである。
この日は、ソ連が対日参戦、日ソ中立条約を破棄、満洲に攻めこんできた日でもある。
同書には、この時の模様を、『木戸幸一日記』を引き、<十一時五十分より翌二時二十分迄、御文庫附属室にて御前会議開催せられ、聖断により外務大臣案たる皇室、天皇統治大権の確認のみを条件とし、ポツダム宣言受諾の旨決定す>、としている。
11時50分とは、午後11時50分である。つまり、夜の0時前から翌日の午前2時20分まで、この時の御前会議は、2時間半にわたって行われた。
昭和天皇の前には、総理大臣・鈴木貫太郎、外務大臣・東郷茂徳、陸軍大臣・阿南惟幾、参謀総長・梅津美治郎、海軍大臣・米内光政、軍令部総長・豊田副武、それに、枢密院議長・平沼騏一郎の7名。
寺崎英成がまとめた昭和天皇の聞書き『昭和天皇独白録』(1991年、文藝春秋刊)には、この深夜の御前会議の様子、天皇がこう語っておられる。
<国体護持の条件を附することに於いては全員一致であるけれども、阿南、豊田、梅津の三人は保障占領を行はない事、武装解除と戦犯処罰とは我が方の手で行ふことヽの三条件を更に加へて交渉することを主張し、戦争の現段階では、この交渉の餘裕はあるとの意見あったに反し、鈴木、平沼、米内、東郷の四人はその余裕なしとの議論である>、とし、さらに、
<そこで私は戦争の継続は不可と思ふ、・・・・・私は外務大臣の案に賛成する(ポツダム宣言受諾)と云った>、とある。ここに、聖断が下った。
大江志乃夫、別の個所でこうも書いている。<八月六日の広島原爆、八月九日の長崎原爆にも天皇が心を動かした様子はうかがえない>、と。<天皇はソ連の参戦ではじめて即時和平に踏みきる決心がついた>、とも。
たしかに、大江が引いている『木戸幸一日記』のこの日の動きにも、ソ連の参戦、近衛公来室、鈴木首相来室、武官長来室、ソ満国境戦の状況聞く、高松宮殿下より御直の電話、重光氏来室、等々のことが記されている。ソ連が満洲へ攻めこんできたことに関する記述はあるが、この日昼前に長崎へ落とされた原爆に関する記述はない。不思議である。
首相以下の主要閣僚、なかんずく、軍の中枢に、広島に続き長崎にも投下された新型爆弾の惨状が、届いていないはずがない。『昭和天皇独白録』のこの日の聞書きにも、原爆のことは出てこない。
その状況にありながら、降伏条件に更なる上積みを、と主張していた軍首脳、聖断なければ何とした、ということになろう。『独白録』の中で、昭和天皇もこう言っておられる。
<軍人達は自己に最も関係ある、戦争犯罪人処罰と武装解除に付て、反対したのは、拙い事であった>、と。