昭和20年8月12日。

6日に広島、9日に長崎に新型爆弾を落とされた。原爆を。
翌10日、昭和天皇は最高戦争指導会議に臨御される。
天皇は、新型爆弾と言われる原爆を落とされてはもうどうしようもない、という気にはなっていたが、この日までポツダム宣言受諾についての最終的な決定はしていなかった。
天皇の国法上の地位存続のみを条件とする内閣総理大臣・鈴木貫太郎や外務大臣・東郷茂徳などと、天皇の国法上の地位存続に加え、在外軍隊の自主的撤兵及び内地における武装解除、戦争責任者の自国における処理、さらに保障占領の拒否の4点を条件とする陸軍大臣・阿南惟幾や参謀総長・梅津美治郎などが対立していた。しかし、結論は出なかった。
そこで出たのが、世に知られている首相の鈴木貫太郎から天皇への「御聖断を仰ぎたき旨」の言葉である。天皇は、外相・東郷茂徳の案を取る。
即刻、外相よりスイスとスウェーデン駐在公使に打電、両国政府を通じて米英ソ中国政府に対しての伝達を要請する。
が、ここからまたひと波乱もふた波乱も巻き起こる。天皇の国法上の地位、つまり国体護持に関し。連合国側はもとより、ポツダム宣言で天皇の国法上の地位存続、国体護持などということは言っていないのだから。
天皇は、連日、軍人、政治家、皇族、さまざまな人を呼び、奏上を受けている。ポツダム宣言受諾を決した後もさまざまに。阿南陸相や梅津参謀総長、豊田軍令部総長などの、いわば無条件でのポツダム宣言受諾に反対する人たちからも。
今日の私は、大部にわたる『昭和天皇実録』にもとずいて記している。
『昭和天皇実録』については、昨年の夏にも記した。各巻900ページから1000ページ近くある大著、もちろん飛ばし読みであるが、面白い。
実は、74年前の今日、8月12日の記述にこうある。
<十二日 日曜日 午前零時十二分空襲警報発令とともに、新型爆弾搭載の米軍爆撃機B29侵入との情報接到につき、直ちに皇后と共に御文庫附属室に御動座になる。同三十分、空襲警報解除につき、御文庫に還御される>、との。
新型爆弾というのは、広島や長崎へ落とされた原爆のことである。このことは、あまり知られていないのではなかろうか。東京に原爆なんて。
アメリカは、広島、長崎に続く第3の原爆投下を用意していた。日本が2発の原爆でも降伏しなければ。
その対象となる都市は。小倉、新潟、京都、横浜、名古屋、大阪、神戸、札幌、・・・。
最も可能性の高い都市は、東京であったようだ。長崎に落とされた原爆と同じプルトニウム型原爆、その名は「トウキョー・ジョー」。投下予定日は、8月17日。19日とか20日という説もある。
いずれにしろアメリカ、黄色人種のジャップに対しては、「参りました」と手を挙げるまで、いくらでも原爆を落とし続けたに違いない。
今日、8月12日、そう考える。