文言。

ポツダム宣言受諾の最初のご聖断が下ったのは、昭和20年8月9日の御前会議。
首相、外相、陸相、海相、参謀総長、軍令部総長、この6人の最高戦争指導会議構成員と、枢密院議長が参列。他に陪席者5名。机上には、国体護持のみを条件とした、外相・東郷茂徳が主張する案(甲案)と、さらに3つの条件を加えた案(乙案)の議案。
66年前の8月9日は、動きの荒い日である。
午前中にも、御前での最高戦争指導会議が開かれている。陸相・阿南惟幾と外相・東郷茂徳、御前で主張を戦わせている。阿南惟幾、本土決戦を主張する。参謀総長、軍令部総長も、陸相に同意。首相・鈴木貫太郎と海相・米内光政は、外相と同意見。最高戦争指導会議メンバーの意見、纏まらず。
午後には閣議。東郷茂徳と阿南惟幾、ここでも激論を重ねる。
去年だったか一昨年だったかにも記したが、半藤一利、阿川弘之、大井篤の鼎談で、「東郷茂徳は凄かった」。「いや、米内光政なくしては終戦はなかったかもしれない」、という話があった。この二人、ものの見える人だったようだ。
この日、二度目の御前会議が開かれたのは、午後11時50分。昭和天皇のお気持ちは、決まっていた。
翌10日の午前2時に至った、この日二度目の御前会議も紛糾した。国体護持のみの条件でポツダム宣言を受諾するか、さらに3条件を付け加えるかで。当然、二つに割れた。首相・鈴木貫太郎、天皇のご聖断を仰ぐ。
「わたしの意見は、先ほどから外務大臣の申しているところに同意である」、とのご聖断が下る。
「念のために理由を申しておく」、とつけ加えられる。「御前会議での陛下のおことばは非常に長かった。それは饒舌ではなくて、一言一言の間が長かったからで、・・・・・われわれが話す五倍もの時間がかかっているように思えた」、と陪席していた内閣書記官長の迫水久常は、話す。
これらのことごと、昨日も記した読売新聞社編『天皇の終戦』にあること。
昭和天皇の第二回目のご聖断は、8月14日の御前会議で下される。
ご聖断、二度も必要だったのか、といえば、必要であった。8月9日以降もさまざまな動きがあった。昭和天皇ご自身も、重臣を、また、皇族方を集めた話し合いを持たれている。クーデターの動きもふくらんでいた。天皇を擁し奉り、ご聖断を翻し、本土決戦に持ちこむべし、という。
しかし、詳細は省く。眠くなってきた。
読売新聞のこの書『天皇の終戦』、さまざまな人に聞いたことを纏めたもの。御前会議にも陪席している内閣書記官長・迫水久常の話も多く出てくる。終戦の詔書は、その迫水久常が原案を書いている。
今日は、その文言について書こうと思っていた。だが、眠くなった。明日にする。