奈良の寺(6) 飛鳥寺。

実は、長谷寺の後、どこへ行こうか考えた。
室生寺にするか、飛鳥寺にするか。室生寺にしろ飛鳥寺にしろ久しぶり。どちらも行きたいが、それは不可能。
時間は、2時半。室生寺の場合は、今日の行程それで終わり。飛鳥寺の場合は、バスの具合にもよるが、あとひとつ岡寺に行くこともできる。岡寺に行けないまでも、明日香の田畑の香を嗅ぐこともできる。
それに、今年の初め、「日本遺産」補遺で仏像のことを記した折り、私のベスト3をこう書いたこともある。。トップは飛鳥寺の飛鳥大仏、次いで唐招提寺の盧舎那佛坐像、3番目に室生寺金堂の十一面観音、と。どちらかひとつなら、トップに挙げた飛鳥大仏にしよう、とも。
で、飛鳥寺に行くことにした。
関西は、私鉄の便はいい。田舎でも案外早く来る。問題は、その先、バスの便が悪い。大きな駅ではタクシーがあるが、タクシーがない駅もある。
2時半すぎ、長谷寺で近鉄に乗り、大和八木で乗りかえ、橿原神宮前へ3時少し前に着く。やはり、飛鳥寺、岡寺方向へ行く次のバスは、50分近く待たねばならない。橿原神宮前は、この地方の中心地。タクシーで飛鳥寺まで行く。
山門の横の方、築地塀の前に、こういう看板が立っていた。

「遠路ようこそ飛鳥寺へ!御一読を」、と書いてある。
力の入った武骨な文章だが、その思い、気合いの入り方、よく解かる。何しろ、日本の仏教、ここから始まったのだから。奈良遷都は、1300年前だが、ここ飛鳥は、その100年以上前なんだから。

飛鳥寺の山門。
飛鳥寺の法号(正式名称)は、法興寺でもあり、元興寺でもあり、現在は、安居院と称される。
また、この立て札にあるように、日本最古の仏像である、飛鳥大仏(釈迦如来坐像)が造られたのは、推古17年(609年)であるが、飛鳥寺自体は、それより前、推古4年(596年)に創建されている。
創建当時の飛鳥寺は、伽藍中央の塔の東西と北に金堂を配する、一塔三金堂という珍しい伽藍配置。その外側に廻廊を廻らした、日本最初の本格的な寺院であった、という。それが、度重なる火災などで焼失、今に残るは、丈六の仏さまおひと方のみとなった。

その飛鳥大仏(釈迦如来坐像)、江戸期に再建された小さな本堂の中に座っておられる。
日本のお寺のほぼすべて、内部の撮影は禁止されている。しかし、ここ飛鳥寺ではカメラの使用は自由である。撮影が認められている。度々の火災で鍛えられているから、というわけではないだろうが、幾らでもどうぞ、という状態。

正面から見た飛鳥大仏。
激しい炎によるものであろう、顔のあちこち傷だらけである。両頬、目蓋のあたり、また、身体のあちこちにも傷を負っておられる。いたわしい、という思いもあるが、そうであるからこそ、より魅かれる。だから、私の仏像、ナンバーワンなんだ。唐招提寺の盧舎那佛や、室生寺金堂の十一面観音を抑えて。
また、正面から見ても、飛鳥大仏のお顔、右の方を向いている。向いているというより、曲がっている。これもおそらく、火災の影響であろう。

やや近寄った右側から。
なお、飛鳥大仏の作者は、あの止利仏師である。当然のことながら、そのお顔には、朝鮮半島の色合い強く漂う。
その為であろう。入る時に貰った小さなパンフレットには、日本語の他、英語と共にハングルでの説明も併記されている。英語が併記されているものはよくあるが、ハングルも併記されているのは、珍しい。飛鳥寺には、韓国から来る人も多いのであろう。

正面から、お顔のみを写す。

右側から。

左側から。

大仏さまの右手には、阿弥陀如来座像がある。


左には、聖徳太子孝養像が。
聖徳太子16歳の時の姿である。

お堂の後ろの廊下から見ると、ちいさな庭がある。古い灯籠などが配されている。
正面うしろの方の灯籠は、飛鳥寺形の石灯籠というらしい。

廊下を利用した展示場には、このような額が懸かっていた。
今は失われている光背、当初はこういうものだったようだ。

短い廊下をひと回りし、また、お堂に入る。
今一度、飛鳥大仏と対面する。次回はいつか、解からぬし。次回があるかも、解からぬし。

フト気がつくと、お堂のうしろの板壁には、こういう紙が貼ってあった。
よくばるな、二枚舌を使うな、悪口を言うな、・・・・・。10の善き戒め、十善戒だ。
数えてみると、8枚しか写っていない。あと2枚は、この右手にあったのだな。不殺生と不偸盗かな。

何しろ、創建時の1/20の規模になったという現在の飛鳥寺、その境内も狭い。
一隅に鐘楼があった。
なお、大正7年の和辻哲郎、飛鳥寺にも行かなかった。当麻寺には行き、高田から汽車に乗っているのだが。
<豫定どほり久米寺や岡寺、飛鳥の古京のあたりの古い寺を訪れるのも、さほど困難ではなかったのだが、汽車にのって落ちつくと、連日の疲れも出て、もう畝傍で下りる勇気はなくなった>、と書いている。
疲れてもいたのだろうが、”飛鳥の古京のあたりの古い寺”・飛鳥寺の飛鳥大仏、「日本化の仏像」を強く意識する和辻哲郎にとっては、さしたる魅力を持たなかったのだろう。