奈良の寺(7) 岡寺。

4時少しすぎ、飛鳥寺の真ん前にあるバス停からバスに乗り、岡寺へ。
このバス、3時少し前橿原神宮前に着いた時、50分近く後に出るというバスだった。岡寺前のバス停には、さほどかからず、すぐ着いた。なにしろ、車はほとんど走っていない。途中、乗ってきた人は誰もおらず、降りた人が1人だけ。バスもゆっくりと走っていたが、これじゃ時間のかかるわけがない。
バスを降りる時、運転手は、「後で飛鳥駅に行くんやったら、あと1本しかないから、バスの時間見てた方がええで。橿原方面やったらあるけどな」、と言った。飛鳥駅へ行くバスは、17時08分。これが最終便。それまでに戻ることにする。
私は、岡寺へ行くのは初めて。まあ、間に合ってよかった。

読み辛いが、岡寺の正式名称は、東光山真珠院龍蓋寺。天智2年(663年)、奈良時代初期の高僧、義淵僧正によって建立された。
飛鳥寺で求めた小冊子などによれば、、この義淵僧正という人は、「学識極めて高く、その門下には、東大寺の基を開いた良弁僧正や行基はじめ、天平期の日本仏教の指導者を多く排出している」、という凄い人だ。日本の法相宗の祖である。

バス停から岡寺までは、上り勾配の道を400メートルほど歩かねばならない。徐々に人家はなくなり、山の中に入りこむ感じがする。
その内、この山門(仁王門)が目に入る。今の仁王門は、慶長17年(1612年)再建されたものだという。西国七番霊場の石柱がある。
江戸時代までは興福寺の末寺であったが、江戸以降、今は、真言宗豊山派、長谷寺の末寺である。

さらに登って行くと、ここに出る。
右奥の建物が本堂。その左は開山堂、さらに左は楼門である。
○○寺社建築と書いた軽トラックが停まっていた。やはり奈良には、寺社専門の建築会社があるんだ。寺社の方でも、四六時中、あちこち修繕しなければならないところが出てくるんだな、きっと。

文化2年(1805年)、30年以上の年月をかけて造営された、という本堂。堂々とし、どっしりとしたお堂である。

本堂の前に、お線香をあげる大きな石の鉢がある。
お線香をあげ、手を合わせた。

本堂の前には、こういう立て札がある。
岡寺の本尊、如意輪観音像は、インド、中国、日本の3カ国の土で、弘法大師が造られたものだそうだ。その高さ4.85メートル、我国最大の塑像で、如意輪観音像としては、最古の作品だという。
その本尊のお顔、塑像ということもあってか、どこか大陸的な印象を受ける。
中国の石窟寺院にあってもおかしくないような。そういえば、敦煌の交脚弥勒のお顔と、どこか似ているような気もする。
昨日も少し触れたが、大正7年の和辻哲郎は、岡寺を素通りしている。
飛鳥大仏同様、この岡寺の巨大な塑像も、和辻好みではないような感じがする。私好みではあるが。

本堂の軒下。
読み難いが、厄年を書いた額が懸かっている。岡寺は、厄除けの霊場としても知られているんだ。

本堂の前にある龍蓋池。
入口で貰ったパンフレットには、こう書いてある。
<岡寺の開祖、義淵僧正は、優れた法力の持ち主であった。その頃、この寺の近くに農地を荒らす悪龍がいた。僧正はその悪龍を法力によって小池に封じ込め、大石で蓋をした。この伝説が岡寺の正式名称「龍蓋寺」の原点になっており、本堂前に「龍蓋池」が今もある>、と。
とても面白いお話だ。

その少し先に、十三重の石塔があった。これは、昭和に入ってから建てられたものらしいが。

暑さを避けるため暫く座っていた休憩所の側に、こんな光景があった。
竹箒などが立て掛けてある。横の方のドラム缶は、落ち葉やゴミを燃やすものだろう。いかにも、お寺らしい眺めであった。

随分ブレているが、こんな光景もあった。職人が3人、境内の植木の手入れをしている。
1人は、中央あたりの白い鉢巻の頭だけが見えている人。左上には、裾広がりの梯子に上り、剪定をしている人。右上の人は、顔の部分が切れているが、やはり梯子の上で剪定作業をしている。これも、お寺らしい光景だ。

この中央左に小さく見えている屋根のあたりが、街道に近い人家らしい。

お寺を出、バスが通る街道に出るまでの道に、このような食堂が1軒あった。
もちろん、店は閉まっていた。そりゃそうだ。
岡寺の境内には、30分ほどしかいなかったが、その間に見た参詣客は、私の他には3人のみ。昨日書いた飛鳥寺には、もう少しいたが、私の他にはただ1人しか来ていなかった。
時季も時季、ということもあろうが、それにしても人は少ない。明日香村の寺まで来る人は。
貰った小さなパンフレットに、こういう言葉が刷られていた。
<けさみれば露岡寺の庭のこけ さながら瑠璃の光なりけり>。
誰かの歌かな、と思ったら、御詠歌の一節だった。