主従二人(出立)。

大相撲五月場所の幕が開けたが、芭蕉と曽良、主従二人の追っかけも、今日から再び幕を揚げる。
昨年6月末、このブログを始めた時が、たまたま「奥の細道」の旅を続ける、芭蕉と曽良主従が、平泉の中尊寺へ詣でた日であった。320年前の同日であるが。で、そのまま終着地の大垣まで、主従二人の追っかけを3カ月余続けた。
それから7カ月近く経った。「奥の細道」の旅、残っている前半部の追っかけをする。
昨年と同じく、岩波文庫の『おくのほそ道』を教科書として、写真やイラストの多く入った山本健吉訳・解説の『グラフィック版 奥の細道』(世界文化社刊)を副読本とし、新潮文庫の嵐山光三郎著『芭蕉紀行』を参考書、とする。
もちろん、国民的紀行文学である『奥の細道』関連本や資料は、少し大袈裟にいえば腐るほどあり、私もその幾らかには目を通しているが、基本的には、上記3冊から学んだことを下敷きにして、話を進める。
今日、5月9日は、旧暦では、3月20日である。321年前、元禄2年の。
芭蕉は、練りに練った『奥の細道』の序に続き、<弥生も末の七日・・・・・>、と「細道」の旅への出立の日を記している。旧暦の3月27日は、新暦では、5月16日である。1週間後である。これが、定説である。
しかし、芭蕉に随行した曽良の『旅日記』には、<巳三月廿日、同出、深川出船。巳ノ下尅、千住ニ揚ガル>、とあり、続いて、<一 廿七日夜、カスカベニ泊ル。・・・・・>、と記されている。
曽良によれば、3月20日、つまり新暦でいえば、5月9日である今日、深川を船で出て千住に着いたことになり、1週間後の3月27日(新暦5月16日)には、春日部に泊まっていることになる。
曽良は、大雑把なところもある芭蕉と異なり、緻密で几帳面な男である。だからこそ、芭蕉の秘書役にはピッタリ、という男である。その曽良が間違えるはずがない、曽良の書いている方が正しい、と言っている最たる男は、嵐山光三郎である。
嵐山は、旧暦3月20日、つまり今日、ふたりは深川を出て、26日まで千住に滞在したのに違いなく、<『細道』の旅に関して千住の町に注目している人がほとんどいないのはどうしたわけだろう>、と彼の『芭蕉紀行』に書いている。
実践派の嵐山は、10年ほど前(それ以前にも何度も行っているのだろうが)木造の小舟をチャーターし、木場から千住大橋へ向かう。千住で、神社へ行ったり、銭湯へ入ったり、居酒屋でビールを飲んだり、肉豆腐を食ったり、また別の飲み屋で酒を飲んだり、と千住の町を歩いている。
<千住の町は街道の初駅であり、飯盛旅籠、煮売酒屋、居酒屋が立ち並ぶ歓楽街である>、と書き、曽良が幕府の隠密であるということを深く信じる嵐山(嵐山ばかりでなく、曽良が、江戸幕府の御庭番、探偵、スパイ、だったという説を唱える人は案外いる)は、その関係で、千住に1週間滞在したのでは、とも書いている。
ホー、そうなのか、とも思うが、実は違う、と私は思う。嵐山の入れ込み過ぎだろう。
俳聖といわれる芭蕉だが、さほど謹厳実直な男ではない。色街が嫌いなわけではないが、あれほど楽しみにしていた、奥への旅の初っ端から色街に長逗留、なんてことは考えられない。曽良の密命のことは、何とも言えないが。
それ以上に、嵐山ほどの男が、読み落としていることがある。
几帳面な曽良の『旅日記』の、各日やそれぞれの事項の頭には、「一(イチ)」や「○(マル)」、といった文字や記号が書かれている。確定、ということで、曽良が記したものではないか、と私は思っている。
しかし、<巳三月廿日、同出、・・・・・>、の頭には、「一」も「○」もない。まだ確定していない、予定だったのかもしれない。また、<廿日、同出>も廿七日の七を、書き落としたのかもしれない。誤字や脱字は、始まりや終わりのところで多いのはよくあること。おそらく、そうであろう。
今では、芭蕉が、岐阜の門人・安川落梧へ出した書簡も発見されている。3月23日、深川から出されている。また、4月26日付けの杉風宛ての書状でも、今日(旧暦3月20日)には、まだ深川にいたことが顕かになっている。
しかし、曽良が、几帳面な男であるだけに、芭蕉と曽良の主従二人の奥への旅、細道の旅への出立日、多くの人が、さまざまな考えを述べてきた。
私も、実際には、おそらく1週間後の5月16日(旧暦3月27日)に深川を船出したんだろうな、と思いつつ、「主従二人」の再開を、今日にした。