主従二人(石の巻)。

松島見物で深い感慨に浸った翌日、旧暦5月10日(新暦6月26日)、主従二人は松島を発ち、平泉を目指す。
<十二日、平和泉と心ざし、あねはの松・緒だえの橋など聞伝て、人跡稀に・・・・終に路ふみたがへて、石の巻といふ湊に出>。
いつもながら芭蕉が記す日付け、2日ズレているが、松島から平泉までは約90キロ近く、3日かかっている。だから、この12日というのも、平泉に着いた日、という意味合いかもしれない。
あねはの松、緒だえの橋は、いずれも古人の歌に詠まれた名所である。前者は在原業平、後者は藤原定家。人に尋ね尋ねて行き着いたが、人跡も稀な猟師道で、ついには道に迷ってしまい、石の巻という港町に出てしまった、と芭蕉は書いている。
ところがすぐ続けて、<「こがね花咲」とよみて奉たる金花山、海上に見わたし、・・・・・>、と記している。
『菅菰抄』には、<こがね花さくとよみてとは、万葉、すべらぎの御代、さかえんとあづまなるみちのく山にこがねはなさく、大伴家持。奉たるとは、此歌を家持より禁庭へさし上られし也。金崋山は、・・・・・>、というとても丁寧で解かりやすい説明がなされている。
大伴家持がこの歌を詠んで、天皇に奉った金崋山を、海上に見わたし云々、と芭蕉は書いているのだ。道に迷って、こんな港町に出てしまった、なんてことを言いながら。
何のことはない、予定調和なんだ。初めからの計画通りの行動なんだ。芭蕉、人を惑わす書き方をする。1+1=2、というような素直な書き方はしない。『おくのほそ道』、至るところ、虚実ないまぜの文章で構成されている。それであるからこそ、後世の私たちが読んで面白い。
さらに輪をかけ、などと言うと俳聖・芭蕉に失礼ではあるが、その後こうも書いている。
「思いもしないところに来てしまったので、宿を借りようとしたが誰も貸してくれない。やっと貧しい小さな家で、その夜を明かした」、と。
この”思いもしないところ”、というのは、フィクションであるが、”誰も宿を貸してくれなかった”、というのは、事実のようだ。
曽良の『旅日記』によれば、この日、石の巻でノドが渇き、白湯でいいから飲ませてもらいたい、と家毎に頼んだが、どこも飲ませてくれなかった、とある。宿も貸してくれなかったそうだ。どうも、よっぽど怪しいヤツだ、と思われてしまったようだ。ひとりは坊主のような格好はしているが、この二人づれ、どうも怪しい、と。
その様子を見た、年のころ57,8の武士が、二人を憐れんで、四兵へという宿を紹介してくれた、と曽良は書いている。主従二人、ホッとしたことだろう。その親切な人の名を問うている。コンノ源太左衛門殿、と曽良、「殿」をつけて記している。
宿に入った後、雨も止んだので、日和山という山へ登り、石の巻の町を見下ろしたり、住吉神社へ詣でたりもしている。何と行動的なことよ。いつものことながら、この二人を追っかけていると、寸暇を惜しんで動き回っているような気がする、私には。
翌5月11日(新暦6月27日)、主従二人は石の巻を発つ。この日は、天気も良かったようだ。
芭蕉は、こう書いている。<明くれば又しらぬ道まよひ行。・・・・・>、と。芭蕉、この石の巻のくだりでは、あくまでも予定外の行動、という姿勢を貫きたいんだ。その夜は、戸伊摩(登米)というところの、検断庄左衛門という宿に泊まっている。
その翌5月12日(新暦6月28日、つまり、今日)、戸伊摩(登米)を発つ。
宿を出る時には曇り空であったが、間もなく雨が降りだし、その内には雨脚強くなったようだ。途中馬にも乗っているようだが、強い雨の中、夕刻に平泉に着く。平泉といっても、正確には、一関。土砂降りの中、たどり着いたようだ。
芭蕉は、<平泉に到る。其間廿余里ほどヽおぼゆ>、と記し、曽良は、<一ノ関黄昏ニ着。合羽モトヲル也。宿ス>、と書いている。石の巻から一ノ関まで20数里、80数キロ、90キロ近く、3日間の行程、途中強い雨にも降られ、さぞや疲れたことだろう。二人共、この後、何も書いてない。さすがにこの日は、バタンキューだったものと思われる。
翌日、つまり明日は、いよいよ藤原三代の栄華の跡、平泉へ行く。中尊寺へ。
実は、私のこのブログ、1年前の今日から始めた。
ブログたるものもよく知らず、パソコンのこともよくは知らず、何を書こうかと思っていた時、フト浮かんだのが奥の細道。俳句のことなども、まったくと言っていいほど知らなかった。だが、ともかく、その追っかけをしてみようか、と去年の6月29日、芭蕉と曽良とが訪れた平泉のくだりから始めた。
だから、前後半入れ違いではあるが、『おくのほそ道』の追っかけ、主従二人の追っかけは、今日で完結、おしまいである。
愚にもつかぬことごとを書いてきたが、その間、多くの先哲の書にお世話になった。芭蕉、奥の細道、に関するものばかりでなく、俳諧、俳句に関するものまでを含めると、おそらく30冊ぐらいの書を読んだ。それまで知らなかった書を。残念なことに、読む後から忘れていくので、まったく身にはついていないのだが、それは仕方がない。
その中で、特に、私が教科書とし、副読本とし、参考書とした、荻原恭男、山本健吉、嵐山光三郎、の3人の先哲には感謝し、また、そのお三方の先生である蓑笠菴梨一にも多くのことを教わり感謝する。
また、この「主従二人」の追っかけ記、どれほどの方が読んでくださったかは知らないが、ただひとりだけ、確実に読んでくださった方がいる。俳人のSさん、碌でもないものを長々とお読みいただき、感謝いたします。主従二人はおしまいですが、碌でもないことごとはまだ続けますので、どうぞ引き続き。
まず明日は、パラグアイ戦だ。