主従二人(遊行柳)。

321年前の今日、6月7日(旧暦4月20日)、芭蕉と曽良の主従二人、遊行柳を見に行く。
芭蕉は、こう書いている。
西行法師が、「清水流るる・・・・・」と詠んだ柳は、蘆野の里にあり、田の畔に残っていた。ここ蘆野の領主、戸部某(この人も江戸蕉門の俳人。俳号は桃酔)が「この柳を見せたいものだ」、と折々に言っていたので、いつかは見たいものだと思っていたが、ついに今日、その場に立つことができた、と。短い文章だ。
西行の歌は、
     道の辺に清水流るる柳蔭しばしとてこそ立ちどまりつれ
この歌に、謡曲「遊行柳」が絡む。遊行僧の一遍上人が訪れた時の、西行と柳の精との物語が。
私には、西行(恥を忍んで記せば、この春、1カ月の2/3、20日前後も桜について触れながら、ついに”西行の桜”については、触れられなかった。1日くらいは何とかしたい、とずっと考えてはいたが、あまりにも知らないことだらけで止めた)についても、よくは知らないし、能の「遊行柳」も観ていない。
しかし、江戸期の知識人にとっては、蘆野といえば、西行も謡曲「遊行柳」も予定調和、当たり前の守備範囲である。芭蕉、ここでこの句を詠む。
     田一枚植て立去る柳かな
西行の歌を下敷きにした句だということは、解かる。頃は、田植えの頃、農家のおばさんや娘さんが田植えをしている。それを芭蕉は見ていたんだろう、遊行柳の近くで。西行の”しばしとてこそ立ちどまり”を受け、芭蕉は、”植て立去る”、と詠んだのだろう。しかし、どこか、俳聖・芭蕉の句とも思えない感じもする。少し単純すぎないか、という思いが。
山本健吉は、こう解釈している。
<柳のもとにたたずみながら、なかば放心の状態で、早乙女たちの手振りに見とれ、田一枚植え終わったことが、同時に、芭蕉の放心からの解放となり、柳のもとを立ち去らしめるのである>、と書いている。能「遊行柳」もよく知る山本先生、多少の修飾は付いているが、この解釈、ことの経過を追ったものであることに、変わりはない。
ところが、実証主義、現場主義の嵐山光三郎は、こういう解釈に真っ向から立ち向かう。
山本健吉ばかりでなく、多くの先達は、同じようにそう解釈しているが、芭蕉の本意はそうではない、と嵐山は言う。先達のみなさんは皆、蓑笠菴梨一によって安永7年(1778年)に書かれた注釈書『奥細道菅菰抄』にある訳をそのまま踏襲して、それに頼りすぎるためだ、・・・・・机上に文献を並べるだけで、現場に行かないからだ、と記し、私の解釈はこうである、として、
<「柳の化物(精霊)が田を一枚植えて立ち去っていった。早乙女が田植えをしているのを見ているうちにふとそんな情景を幻視してしまった」・・・・・この句の主役は柳なのであり、「田一枚植える」のも「立去る」のも柳なのである。句をそのまま直訳すればよい>(『芭蕉紀行』)、と書く。
さらに、<柳の化物はじつは西行の歌霊でもあり、芭蕉は西行の旅をも幻視している。白日夢の句なのである>、とも書いている。
江戸期以来、蓑笠菴梨一も含め多くの芭蕉研究者がいる。その後の明治、大正、昭和、平成、と。江戸期、和漢、さらに仏典を含め、その当時可能な限り123部の文献に当たった蓑笠菴梨一はじめ、多くの人は、文献渉猟派であろう。それらの先哲を越えるために、昭和、平成の芭蕉研究者・嵐山光三郎は、幻視というキーワードを編みだした。芭蕉は、幻視している、ということを。
この「田一枚・・・・・」の句ばかりでなく、幾つかの芭蕉の句に、これは芭蕉の幻視だ、ということを記している。芭蕉幻視主義者だ、嵐山にとっては。
世に原理主義者は、多くいる。アルカイダは、イスラム原義主義者、イスラム・ファンダメンタリストと呼ばれている。今、何につけオバマを叩いているのは、クリスチャン・ファンダメンタリストだ。その伝で言えば、嵐山の言う芭蕉幻視主義者論、芭蕉は、イリュージョニストということになる。