主従二人(日光)、そして、荒川。

昨日、旧暦4月1日、日光に着いた主従二人は、御山・東照宮に参詣する。
その慈恩は四方にあふれ、士農工商すべての民は平穏に暮らしている。なお、この御山については畏れ多いことなので、筆をさし置く、と『おくのほそ道』にはある。そこで、
     あらたふと青葉若葉の日の光
の一句を詠む。
曽良の『旅日記』によれば、この日は、昼ごろまで小雨が降っていたようだ。雨に濡れた新緑が眩しく、家康を祀る東照宮への敬いの気持ち、弥増す、といったことだろうか。
実は、2日前の室の八島での『俳諧書留』に記されている5句の中に、
     あなたふと木の下暗も日の光     翁
という一句がある。嵐山は、<室の八島で見つけた「日の光」をこちらへ頂戴した>、と書いている。室の八島では記さず、取っておいたのだ、と。このことは、多くの人がそう思っていることだが。
それよりも、芭蕉はその前段で、<往昔、此御山を「二荒山」と書きしを、空海大師開基の時、「日光」と改給ふ>、と記しているのだが、岩波文庫の校注者・萩原恭男は、「日光」は、「二荒」の音に当てた改称であり、その「二荒山」は、観音浄土の「補陀落山」の音に当てた名である、と記している。
言われて初めて、成る程そうか、と思うことではないか。このことは。
また、10年をかけて「奥の細道」の注釈書『菅菰抄』を成した蓑笠庵梨一は、空海についても長い説明を加えているが、その中にこういう一節がある。<大師・国師ノ号ハ、皆帝王ノ師トナルノ称ナリ。故ニ多ク死後ノ諡ニ賜フ>、と。弘法大師に限らず、何々大師と呼ばれる偉いお坊さんは、みな朝廷から賜った称号なんだ。学のない私、このことも初めて知った。
寄り道は切りあげ、芭蕉の記述を追うと、
     剃捨て黒髪山に衣更     曽良
の句が記され、奥への旅、細道への旅の随行者である曽良を紹介する文章が続く。曽良の本名は何であるとか、いかに自分を助けてくれるかとか、この旅に出るので頭を丸めたとか、ということを。なお、黒髪山は、男体山のことであり、衣更えは、この日、旧暦4月1日が衣替えの日に当たる故である。
それはともかく、芭蕉による曽良紹介文の最後には、こう書かれている。<仍て黒髪山の句有。「衣更」の二字、力ありてきこゆ>、と。
なかなかのものじゃないか、この句は、と芭蕉が言っているのも当たり前。曽良が詠んだものとなっているが、実は、芭蕉の作なんだから。創作家・芭蕉、こんなことは、お手のもの。
その翌日、つまり、新暦でいえば5月20日の今日、主従二人は、裏見の滝を見にいった。(どういうわけだか、二人は華厳の滝には行っていない)そこで、この句を詠む。
     暫時は滝に籠るや夏の初
萩原恭男は、<滝の裏に入った我身を夏安居(げあんご)の修行と観じての吟>、としているし、山本健吉は、<細道の行脚を、夏行(げぎょう)のように見立てたのか>、と記している。
夏安居にしろ、夏行にしろ、旧暦の4月中旬から7月中旬にかけての90日間、お坊さんが修行すること。もちろん、『菅菰抄』には、こと細かに説明されている。
芭蕉と曽良の2人も、裏見の滝の飛沫を浴びながら、暫し坊主の修行に身を重ねたのであろう。
裏見の滝を見た後、今市、大渡を経て、今夜は、玉入の名主の家に泊まっている。
荒川修作が死んだ。
荒川については、今年1月の初め、「日本遺産」の補遺の最初、「建築家の眼」のところで少し触れた。磯崎新が設計した「新宿のホワイトハウス」のところで。その新宿のホワイトハウス・吉村益信のアトリエで開かれたネオ・ダダ・オルガナイザーの展覧会に、長期入院中の病院を抜け出し、恐る恐る見にいったことを。
ネオ・ダダの連中がいた。モヒカン刈りのギューちゃん・篠原有司男は憶えている。吉村益信や赤瀬川原平と共に、その時、荒川もいたのであろう。10人ぐらいのネオ・ダダの連中がいたから。しかし、よく思いだせない。50年も前のことだから。
だが、読売アンデパンダンでの荒川の作品は、よく憶えている。石膏かセメントを固めたものが綿にくるまれ、木の箱に入っていた。今、大阪の国立国際美術館で、その頃の荒川の作品を再制作した展覧会が開かれているようだが、たしかに印象深い作品ではあった。
ネオ・ダダの連中の中では、最も早くニューヨークへ渡った。その後、ずっとニューヨークに住み続け、「世界のアラカワ」となり、今日ニューヨークで死んだ。73歳、ネオ・ダダの連中の中では、若い方だ。荒川より遅れてニューヨークへ渡ったギューちゃんは、今年たしか78歳になるはずだから。
愚直なギューちゃんは、やや外れのブルックリンかブロンクスで制作を続けているが、世界のアラカワは、中心部のマンハッタンで制作をしていたのであろう。
荒川よりは、ギューちゃん好きな私ではあるが、荒川修作の名、美術史に残るであろう。