赤レンガの駅舎。

東京駅丸の内口のロスコ・ロード(ロスコ通り)、単に無粋な工事現場を囲う金属の板に、赤褐色の駅舎の写真が転写されたものにすぎない。私にとっては、その写真がアップできないのが残念ではあるが、JRにとっては、それは単なる工事現場の囲い。
JRが、こちらの方を見てくれ、と思っているであろう囲いは、ロスコ・ロードを出た外側の囲いにある。
こちらの金属板の囲いにも、赤褐色の写真が転写された帯が続いているが、所々その上に、赤レンガの駅舎復原までの変遷を伝えるパネルが貼られている。いわば、「東京駅小史」、とも言えるものである。
ちょうど3年前に始まり、2年後の2012年6月に完成予定の丸の内口、赤レンガ駅舎の保存、復原までの歴史が示されている。
<江戸から引き継いだ都市インフラが限界に達した明治10年代、近代国家の首都にふさわしい都市へと東京を改造する気運が高まり、鉄道計画は、そのメインテーマと位置付られた>、とある。

1884年(明治17年)、帝都の玄関を、と東京府知事・芳川顕正による「市区改正意見書」(最初の都市計画案)が作成されたそうだ。
それ以前、1872年10月には、新橋〜横浜間の鉄道が開通している。中央の写真は、1914年(大正3年)当時の新橋駅の駅舎。
下の写真は、やはり1914年(大正3年)12月に完成した東京駅の駅舎全景。

1903年(明治36年)、辰野金吾(左下の人物)へ駅舎の設計を依頼。
上のものは、辰野の第1案。

1912年(明治45年)、東京駅の原型である万世橋駅。左上の写真がそれ。
今はないが、今の秋葉原の近辺にあったようだ。設計は、やはり、辰野金吾。

1914年(大正3年)、東京駅開業。
この年の12月18日、鉄道建設推進の最大功労者のひとり大隈首相を筆頭とする来賓列席の下に、開業式が行われた、とある。
上の2枚の写真は、開業式の模様。下は、竣工後の駅舎の全景。

1945年(昭和20年)5月25日、東京駅の丸の内本屋は、米軍の焼夷弾攻撃により、ほぼ全焼する。上の3枚の写真は、その状況。
外壁は、形を留めている部分もあったが、内部は完全に焼失したという。
今、シートのようなもので覆われている駅舎は、その後、1947年(昭和22年)辰野設計の原型を縮小した形で修復したものだという。

保存・復原計画の基本方針は、1、2階の既存外観を保存し、さらに、当初の辰野金吾設計のものに復原する、ということだ。

施設計画の基本方針。丸の内の駅舎に入っていた東京ステーションホテルとステーションギャラリーも、復原された駅舎に、当然入る。あの2つの施設は、丸の内口には付き物だものな。
丸の内駅舎については、赤レンガの外観は残すものの、その上に高層のビルを建てる、という意見と、いや、保存・復原、辰野金吾設計のものに完全に復原すべきだ、という議論があったという。最終的に、保存・復原案に収斂した。
よかった。丸の内駅舎、重要文化財というばかりでなく、その方がステキである。赤レンガの駅舎の方が。どこの国でも、駅舎というものは、古びたものであり、その方が趣きがある。高層のビル駅舎など、新興国にまかせておけばいい。
佐藤慶と北林谷栄が死んだ。81歳と98歳。十分に生きた。
特に、佐藤慶は印象に残っている。ニュースでは、大河ドラマの何々とかと言っていたが、私にとっては60年代の大島渚の佐藤慶だ。戸浦六宏、小松方正、渡辺文雄などといった、ひと捻りのある役者と共に、大島の映画では欠くことのできない、ひと捻りもふた捻りもある役者であった。
戸浦も小松も渡辺も、そして、佐藤も、みな死んだ。大島も倒れたままだし。時は経った、という感、強い。