山頭火の桜。

80年近く前の昭和7年の今日、4月15日、種田山頭火は、福岡市の西公園で花見をした。
3月初めのころ、このブログでも触れた、村上護著の『山頭火百二十句 道の空』、にそう出ている。
そこで、リズミカルなこの句を詠む。
     さくらさくらさくさくらちるさくら

このところの雨や風ということもあったが、千葉でも桜花はほとんど散っているのに、西の福岡でまだ花見とは。村上は、<このときは花ざかりで人でいっぱい。けれど見上げて歩けば、桜ばかり>、と書いているので、80年近く前の福岡で山頭火が見たのは、上の写真のような状態であったのだろう。
ところで、上の句、一句の中に、「さくら」の語が4回も繰り返されて出てくる。村上は、こう書いている。
<まず「さくらさくら」の繰り返しは、いかにも満開の桜花、そしてよく見れば「さくさくら」があり「ちるさくら」もある。また別の切り方もあって、「さくら/さくらさく/さくらちる/さくら」と読むのも面白いかもしれない>、と。
なるほど、言葉遊びだな。リズミカルな言葉遊びだ。
それに加えてこの句から、私は、言葉の少なさの妙を感じたのだが。「桜」、「咲く」、「散る」。一句の中に、この3つの言葉しか出てこない。名詞が一つ、と動詞が二つ。形容詞も、副詞も、助詞も、助動詞も使わない。名詞と動詞、たった3語で、さまざまに読みとれる桜木の、そして、桜花の世界を表わしている、と感じたのだが。


いずれにしろ、桜は、パッと咲き、

ハラハラと散っていくもの。
桜が秘め持つ世界は、奥が深いが、目に見える形としては、「咲く」と「散る」しかない。
いい句だと思う。
ところが、村上によれば、この句は、山頭火の自選句集には入っておらず、そこには、
     さくらまんかいにして刑務所
という句が入っているそうだ。
言わんとしていることは、解からないではないが、平凡だな、この句は。「オイ、オイ、どうした山頭火、これじゃ角川春樹に負けちゃうぞ」、と言いたくなる。
今、気が付いたが、冒頭の句、こういう切り方もあるな。
「さくら/さくら/さく/さくら/ちる/さくら」、という。リズミカルではなくなるが、このボツボツとした感じも、山頭火らしいんじゃないか。
いかようにも読みとれる、たった3語の山頭火の桜句、素晴らしい。