されど、わが満洲。

毎日、碌でもないことを書き連ねている私のブログ、取りあげる人は、原則としてすべて、敬称を略させていただいている。一国を代表する人であろうとも。いかに高名な方であろうとも。
しかし、私にとり、この方はそうはいかないというお方が、何人かいる。詩人の関塚磤先生は、そのおひとりである。関塚先生を知ることにより、先生の言動を目の当たりにすることにより、多くのことを学ばせていただいたからである。
先生の方では、なにもことさら教えてやろうなどというお気持ちは、持っておられないであろう。だが、周りの人間は、先生のお人柄からなんらかのものを学ぶ。ごく自然に。この世には、ごく稀にそういうお方がいるのである。
関塚先生は今までに、多くの詩集やエッセイ集を上梓されている。『季節の訪ひ』、『癌詩集』、『満洲詩集』、『ロシアの算盤』、『母の教えたまいし歌』などをはじめとして。
その先生の最新刊が、『満洲発東京下町生活』(映人社刊)というエッセイ集である。先生がここ十数年来お続けになっている、個人誌「みち」にお書きになったものや、朝日新聞、東京税理士界(おそらく、税理士業界の雑誌であろう)などにお書きになったものを、纏められたものである。
ああ、そうだ。詩人である関塚先生は、税理士でもある。お身体をこわされたりし、セーブはされている模様であるが、今でも税理士事務所をお持ちである。以前なにかで、日本の詩人で詩を書くことだけで食っているのは、谷川俊太郎ただひとり、ということを読んだか聞いたかしたことがあるが、たしかにそうであろう。だから、多くの詩作を為されてこられた関塚先生も、ずっと税理士を続けてこられた。
ところで先生の最新刊・『満洲発東京下町生活』、昭和7年、東京の下町に生れた関塚先生、昭和14年、ご両親と満洲へ渡り、昭和21年、日本へ帰還、また東京の下町で暮らされたことごとを綴られたものである。だから、満洲発東京下町生活。満洲では、中学1年の時まで過ごされた。
10代後半に東京へ出てきた私には、こと細やかに記されている、上野、谷中、日暮里、本郷、浅草、両国、などなどの東京の下町の記述も面白かったが、先生の満洲への思いを記された文章が、やはり心に残る。
実は、私も満洲で生れた。それもあってだろうが、余計に満洲のことが。先生よりは10ばかり若いので、満洲の記憶はほとんどないが、先生は、10代前半まで多感な年頃を満洲で過ごされている。主に奉天(今の瀋陽)で。
この書のあとがきの中で、先生はこう書いておられる。少し長くなるが、先生の記述を引く。
<私は満洲に育った。「満洲」が日本の悪い国策の結果であるとするお考えの方にとっては、「満洲」という言葉にすら悪い印象をお持ちの方も多いのではないだろうか? そこにはかっての日本の行き方が大きな原因の一つとしてあったと思う。この著書ではそれに触れる余裕も無かった。しかし私にとっては「満洲」が好きで恋しくてならない>、と。
そうなんだ。満洲で生れた人、満洲で育った人は、すべて皆、満洲に対しての恋心と言ってもいいものを持っている。恋しい、懐かしい、満洲に対する郷愁は強い。
先生より2歳年上のノンフィクション作家・澤地久枝は、4歳の時に満洲へ渡り、15歳で引き揚げてきたそうだが、その著・『もうひとつの満洲』の中で、こう書いている。
<男と女の情、あるいは骨肉の情とならんで、郷愁とはまことに切実で御しにくい感情であると思います。愛情が人と人を結ぶ絆であるなら、郷愁はふるさとの地への回帰の絆というべきでしょうか>、と。
また、先生より2歳年下の画家の池田満寿夫(その名自体、満洲を連想させるが)は、先生が育った奉天(瀋陽)の生れであるが、彼もこう言っている。
<満洲とか奉天とか聞くと、遠い故郷が自分を呼んでいるような気分にさそわれる>、と。(『満洲 昨日今日』)
満洲は日本の傀儡国家であった。その記憶などほとんどないが、満洲生れの私はそう思っている。おそらく、その歴史を知る心ある人は、皆そう思っているであろう。しかし、されどわが満洲、であるのも事実である。満洲で生れた人や育った人にとっては。郷愁の満洲である。
やはり奉天(瀋陽)で生れた東大教授を長く務めた政治学者の衛藤瀋吉(瀋吉という名自体、瀋陽そのもの。思い入れは深い)は、関塚先生が通った旧奉天一中の先輩でもあるが、『されど、わが「満洲」』の中で、こう書いている。
<私の心の中における「満洲」は、まことに割り切れないものなのである。・・・・・故郷といえばうそになる。しかし絶対他郷ではない。・・・・・誰が何と言おうと「満洲」はなつかしい。その字を見ただけでも胸おどるし、その音を聞いただけでも、ふっと顔を上げたくなる>、と記している。
関塚先生も含め、満洲生れ、満洲育ちの人たちは、みな満洲に対する郷愁を、抑えがたく持っている。満洲が傀儡国家だということは解かっていながら。その記憶などほとんどない私でもそうだ。
その中で、関塚先生の著書を読んで際だって気づくことがある。”もう戦争はしてはならない”、ということだ。この書には、随所にそのことが述べられている。
<戦争はもう二度とあってはならない。平和だけが民族の相互理解を深め、更に一層平和に向かって手を取り合い乍ら、共に進んでゆく事ができるのだ>。
<やはり今中国との友好関係に資するため、日本人としてやらなくてはならない事が、ものすごく沢山あるのだということに私は気付いたのである>。
また、<今後日本と中国の友情は益々強く、経済界における我々専門家同士の連携も更に深く強く、その輪は大きく広がる事に間違いない>。
このような不戦、また、将来への希望を述べられた記述が、先生の著書にはあちこちに出てくる。
その何よりの証明だ、と私が思っていることがある。
10年以上前からだと思うが、先生の事務所で、中国からの留学生の女性を見かけたことがある。中央大学で学びながら、先生の事務所でも勉強をしていた。その中国人の女性は、有能な税理士となり、今、先生の税理士事務所の共同経営者として活躍されている。
先生の満洲に対する熱い思いの結実であろう、と私は思う。先生の不戦・反戦への深い思いと共に。
されど、わが満洲、先生は、着実に実を結ばせた。
心、広くなる書であった。