蒙魂和才。

夜のニュースで、引退後の朝青龍が、初めてモンゴルへ帰った映像が流れていた。
成田を出る時には、スーツ姿で、白い縁の眼鏡をかけていたが、乗りかえの北京では、サングラスをかけ、ウランバートル・チンギスハーン空港に着いた後の会見場には、毛皮の帽子に、黒っぽいモンゴル服で現れた。
モンゴル語で、暴行事件は、否定し、引退しなければ、30回は優勝していた、と語り、日本相撲協会への不満にも、少しは触れた。しかし、秋にひかえる断髪式、引退相撲があるためであろう、相撲協会への不満は、言葉を選んでいるように感じられた。
だが、日本人記者の日本語による質問には、「ここは、モンゴル、断る」、と日本語で、はねつけた。空港から会見場への移動にも、パトカーの先導がつく、モンゴルの英雄の朝青龍、モンゴル人の誇りを見せつけなければいけない、モンゴル人の矜恃を示さなければならなかったんだろう。
明治維新後の欧化政策により、日本は、多くの俊秀を欧米に送った。先進の学問を、技術を学ばせるために、欧米に留学させた。和魂洋才の時代が始まった。津田梅子など、わずか6歳でアメリカへ留学している。その日本が、日清、日露の戦争に勝ち、列強の仲間入りをすると、今度は、アジアの国々から先進国、日本へ多くの留学生が来た。
清国(中国)からの留学生が、多かった。魯迅は、明治37年(1904年)に来ているし、その弟・周作人もそのすぐ後来ているし、昭和初期、日中戦争が始まる前には、その数、万の単位の人が学んでいた。中国ばかりじゃない。ベトナムやタイなどアジア各国から、日本へ留学生として、多くの人が来ていた。
しかし、その後の日本が、大陸への侵攻、南方への進行を始めると、一部の人を除き、多くの留学生は、日本に対し、不信感を持ち、絶望し、自らの国に帰った。反日に走った人も多い。今、思えば、日本にとっても不幸なことだった。
ドルゴルスレン・ガグワドルジという名のモンゴルの少年は、16歳の時、高知の明徳義塾高校へ、相撲留学した。才能豊かなドルジ少年は、その後、高砂部屋に入門し、朝青龍となり、相撲界の頂点を極めた。名声と富を手に入れた。
朝青龍は、まだ29歳、相撲の世界で生きてきたが、この13年間、日本社会に留学していた、とも言える。永住権は取ったが、他の相撲取りのように、日本国籍は取らなかった。モンゴル人の矜恃は、護るぞオレは、と思っていたんだろう。そう思える、私には。
今日の会見でも、今後の去就については、まだ決めかねているようだ。が、おそらく、日本がらみのビジネスをするのでは、と思う。うまく折り合いをつけて。その際、彼の心の中が、昔の、不幸な時代の留学生のように、反日になるのかどうかは、解からない。
ただ、蒙魂和才の男になることだけは、たしかだな。
日本に対する思いは、さまざまあろうが、これからの人生、ぜひ実りあるものにしてもらいたい。日本を、大いに利用してくれてもいい。
蒙魂和才で。